いまから140年前のきょう、明治10(1877)年9月7日、京都・伏見の船宿である寺田屋の女将・登勢が亡くなった。天保元(1830)年生まれ、享年48と伝えられる。NHK大河ドラマなど幕末物の作品でもおなじみの登勢は、『新選組!』(2004年)では戸田恵子、『龍馬伝』(2010年)では草刈民代が演じたことが記憶に新しい。
寺田屋は、宇治川(淀川水系)に通じる運河・濠川のほとりに所在し、水路で京都と大坂を結ぶ交通の要所・伏見のなかでもひときわにぎわった船宿の一軒である。近江(滋賀県)大津に生まれた登勢は、18歳で6代目寺田屋伊助のもとに嫁ぎ、幕末の動乱のなかさまざまな事件に遭遇することになる。文久2(1862)年4月23日には、寺田屋に集結した尊王攘夷派の薩摩藩士が、島津久光の命を受けた同藩士に斬殺されるという事件(寺田屋騒動)が起こった。その後、毎月23日には、寺田屋が薩摩藩に代わって、事件で死んだ藩士たちの弔祭を行なうようになる。ここから寺田屋は薩摩藩との関係をさらに深めていく。
伊助が元治元(1864)年9月に亡くなり、登勢が店の業務の一切を取り仕切るようになった翌年、慶應元(1865)年夏頃からは、坂本龍馬が寺田屋を常宿として使うようになる。これも龍馬が薩摩藩の紹介を受けてのことであったようだ。龍馬が仲介した薩長同盟の成立直後、慶應2年1月23日に寺田屋で幕府の役人に襲撃された際、のちに妻となるお龍の通報で救われたという話はよく知られる。お龍はこのとき、登勢の娘分として寺田屋に置かれていた(新人物往来社編『共同研究・坂本龍馬』新人物往来社)。
寺田屋は慶應4年1月の鳥羽・伏見の戦いで焼失したが、登勢の貯めていた金で、隣りの敷地に再建される。明治に入り、淀川を蒸気船が往復するようになると、寺田屋は付近に船着場が設けられたこともあり、繁盛が続いた。だが、明治10年2月、大阪~京都間に鉄道が開通して以降、伏見の船宿は凋落の一途をたどる。登勢はまさに時代の大きな変化を見届けるように亡くなった。折しもこの年起こった西南戦争では、9月に入り西郷隆盛率いる薩軍が鹿児島まで追い詰められていた。政府軍の総攻撃を受けて、西郷がついに自刃を遂げたのは、登勢の死から17日後、9月24日のことであった。