『パンドラの箱は閉じられたのか 相模原障害者殺傷事件は終わっていない』(月刊『創』編集部 編)創出版

 社会は冗長さを許さず、要点を望んでいるように感じることがある。だが、要約でわかったつもりになっていると、本質は指の間からするりと抜け落ちる。本当に大切なことは、要約できないところに息を潜めているからだ。

 19人の障害者を殺害した相模原障害者殺傷事件を扱う本書の編集姿勢は、要約を排したところにあるのだろう。月刊『創』編集長篠田博之は、2年半にわたって植松聖死刑囚と接見し、時には抽選に外れながらも裁判の傍聴を重ねてきた。可能な限り一次資料を掲載しようという思いから、津久井やまゆり園元職員や植松の元恋人や友人たちの調書、本人の手紙や死刑判決文が掲載され、後半部は識者インタビューや鼎談などが収録される。

 植松について事件発生から死刑確定に至るまで、大量の報道がなされてきた。しかしそのような断片を組み合わせるだけでは窺うことのできなかった事件の別の側面が見えてくることもある。たとえば植松は親子関係に問題があった、家族は彼を見捨てて引っ越したという報道もあったが、植松の幼馴染は篠田とノンフィクションライター渡辺一史氏によるインタビューでそれを否定する。しかし、その証言もひとつの見方でしかない。どの証言が正しく、どの見立てが間違っているというものではない。おそらくどれも一面では正しく、一面では違っているのだろう。植松は優生思想を持ちながらも、フランクルの『夜と霧』を最後になるかもしれない手記に引用するまでに愛読していた。絶対的な真実はひとつではなく、人間というものは様々な顔を持っているということに改めて思い至る。

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 本書のもう一つの特徴は、異なる考えをもつ人による対話を示唆したことであろう。やまゆり園をいい施設だと語る被害者の家族もいれば、今まで面倒を見てもらっているという負い目から言いづらかった施設の問題点を提起する家族もいる。誰かを責めるだけでは何も生み出さない。障害者の生活を社会で支える社会福祉施設の考え方と、地域で暮らしたいという自立生活運動の考え方の相違もこの事件の根底にあるが、両者が議論する機会さえ乏しいことも本書は指摘する。

 この問題に限らず同じ考えを持つ人たちだけで集まっていては、いつまで経っても議論は平行線のままで終わる。必要なのは違う考えの人たちによる粘り強い対話であろう。植松は対話することのできない知的障害者を無用の存在と考えながらも、彼自身が真の意味で誰とも対話できずに苦しんでいたのかもしれない。

 その視点から本書を手に取ると、要約された情報の受け手であった立場から解き放たれ、読み手自身が大きく感情と思考を揺さぶられながら主体的に本を読みすすめることになるだろう。それこそが対話の一歩になるのではないだろうか。

『パンドラの箱は閉じられたのか』
開けられたパンドラの箱 やまゆり園障害者殺傷事件』の続編。主な執筆者・発言者は篠田博之、渡辺一史、尾野剛志(津久井やまゆり園家族会前会長)、鈴木靜(愛媛大学教授)など。

かわいかおり/ノンフィクション作家。昨年、『選べなかった命』で大宅壮一ノンフィクション賞、新潮ドキュメント賞を受賞。