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小学4年生の私にサインをくれた選手、くれなかった選手――初優勝に沸いた昭和50年、広島カープの場合

文春野球コラム フレッシュオールスター2020

2020/08/31

 私は、この試合で負けていたら、初優勝はなかったと確信するのだが、6月のヤクルト戦で5連敗をしていた中で先発して、6回1/3を1失点で抑えて勝ち投手になり、これでカープは息を吹き返した。その後、永本は阪急、巨人に移籍して、長嶋茂雄監督には抑え役を期待されたが、少し荷が重かった。

 しかし、阪急に戻った1982年にはサイドスローに転向して15勝を挙げている。引退後は、プロ野球に携わることはなかったが、実直な性格を生かしてしっかりとした人生を送っていることであろう。

どことなく都会風の雰囲気を漂わせていた男

 3人目は、木下富雄内野手(背番号25)。駒澤大学からドラフト1位で初優勝の前年に入団していたが、当時はバッティングが非力であり、試合後半の守備固めで使われていた。

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 木下は、どことなく都会風の雰囲気を漂わせており、流ちょうな東京弁を使い、当時のプロ野球選手としては服のセンスも良く、いつもいい香りがしていた。ただ、本当に優しい人で、最後の1人までサインをくれていたし、常にニコニコ微笑みながら、物腰柔らかく対応していた。

 その後、木下はチームに不可欠なユーティリティー選手としてカープ一筋で、1364試合に出場して、チーフコーチや二軍監督も務め、現在は野球解説者として活躍中である。後年は、口ひげをはやしたことから「パンチョ」の愛称で親しまれたが、広島ではダンディーな風貌を生かして、「地方タレント」としても人気を博している。

 このように、「三聖人」の選手たちは、子供たちに優しい選手に留まらず、プロ野球選手としてもきちんと足跡を残している。ただ、それ以上に、当時はまだファンサービスに対して、球界全体の意識が今ほど高くない時代であったにもかかわらず、プロとしてファンへの最高の接し方を具現化しており、数多くの子供たちに与えた好影響は計り知れないものがある。次回は、彼ら「三聖人」とは対照的に、決して子供たちにサインをしなかった「三魔神」について、詳しく書いてみたい。

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