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小学4年生の私にサインをくれた選手、くれなかった選手――初優勝に沸いた昭和50年、広島カープの場合

文春野球コラム フレッシュオールスター2020

2020/08/31
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※こちらは公募企画「文春野球フレッシュオールスター2020」に届いた原稿のなかから出場権を獲得したコラムです。おもしろいと思ったら文末のHITボタンを押してください。

【出場者プロフィール】小玉 山彦(こだま・やまひこ) 広島東洋カープ 54歳。幼少時は広島県で過ごし、修道中学、修道高校を卒業。2017年にサラリーマンをしながら、社会情報学博士を取得。現在は、在京キー局で働きながら、東洋大学と実践女子大学の非常勤講師、広島大学特別講師などを務めており、テレビマンと研究者の二足の草鞋を履いて活動中。専門はメディア論とカープ論。

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  昭和50年(1975年)は、広島東洋カープが3年連続最下位から一転して初優勝を果たした、忘れられない一年となった。その年に、小学4年生となった私は、カープのファンクラブ組織「赤ヘル友の会」の入会資格を得て、子供同士で広島市民球場のデーゲームに観戦に行くようになる。入会特典として、5枚の外野席無料券やイヤーブックと共に、この年から「赤」に変わった帽子がついてきた。当時、まだどこにも売っていなかったので、自慢げに毎日かぶって歩いた覚えがある。

 その帽子に、カープの選手のサインを書いてもらおうと、試合後に市民球場の正面入り口で選手の「出待ち」をしたのが、私がサインを集めるきっかけとなった。当初は、大事な赤い帽子なので、ツバの部分だけにと思っていたが、最初にサインをもらった深沢修一外野手(背番号31)に、前面部のCのマークの真横に、でかでかと書かれてしまった。それからは、堰を切ったように、だれかれ構わず、背番号でわかる選手のサインまで集めるようになり、気が付けばその日のうちに、自慢の赤い帽子がサインで黒くなっていた。

 さて、このサイン集めであるが、すぐ応じてくれる選手と、全く書いてくれない選手がいる。例えば、両雄であった衣笠祥雄内野手(背番号3)と山本浩二外野手(背番号8)は対照的で、鉄人は立ち止まって、出来る限り多くの子供たちにサインをくれていたが、ミスター赤ヘルは歩きながらの対応が多かったように思う。当時のカープの選手の中に、極めて紳士的な態度で、優しく子供たちに接してくれた天使のような3人が存在しており、ここからは、彼ら「三聖人」について詳しく書いていく。

1975年、リーグ初優勝の祝勝会で大喜びの衣笠祥雄(左)、山本浩二(右)と古葉竹識(中央) ©共同通信社

紳士的な態度でサインしてくれた「三聖人」

 1人目は、池谷公二郎投手(背番号11)。昭和50年は、日本楽器からドラフト1位で入団して2年目のシーズンであったが、18勝をマークしてローテーションの一角として、カープの初優勝に貢献する。実は、私がファンクラブから招待されて初めて観戦した5月の阪神戦で池谷は先発して、自らもホームランを放ち快勝したのであった。

 その試合後に、疲れているにもかかわらず、池谷は我々子供ファンに、最後の1人までサインを書き続けてくれた。しかも、池谷は若きエースでありながら親近感にあふれ、どことなく左とん平に似た憎めない風貌で、軽く話をしながらサインをする、子供好きの好青年であった。当然、私は一瞬にして池谷の大ファンになり、「ぎったん、ばったん投法」と呼ばれた独特の投球フォームを真似たり、体操服の胸に11と油性ペンで書いて、先生に怒られた覚えもある。

 その後、池谷はカープ一筋で103勝を挙げているが、現役引退後もカープや巨人で投手コーチを務め、現在も野球解説者として活躍中であり、彼の人柄の良さと親しみやすさが、表れているといえるだろう。

一言も話すことなく、黙々とサインを書いていた男

 2人目は、永本裕章投手(背番号26)。盈進高校からドラフト2位で入団して、カープ初優勝の年は5年目で、速球投手として期待されながらもコントロールが悪く、前年まで9連敗していた。

 市民球場で出待ちをしていると、永本は池谷と共に出てくることが多く、まず池谷にサインをもらってから行っても、まだ長蛇の列ができていた。永本も、最後の1人までサインをくれたが、池谷とは対照的に目鼻立ちのはっきりした美男子で、一言も話すことなく、黙々とサインを書いていた。おそらく、シャイな人だったのであろうが、この誠実な男が昭和50年に、ここ一番で大仕事をやってのけた。

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