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キャンペーンでの地方回りとデビュー曲の大ヒット

 それからというもの、カラオケ大会やオーディションに出まくるようになる。高校3年のときには、NHKの『BS歌謡塾 あなたが一番』という番組に出て、優勝こそ逃したものの、審査員だった作曲家の水森英夫から名刺を渡される。これを受けて上京を決断し、水森のもとで修業を始めた。2年ほどしてレコード会社が決まったが、所属するプロダクションはなかなか決まらなかった。当時、若い男の演歌歌手は売れないというジンクスが業界にあったからだ。10軒ほど回って、やっと受け入れてくれたのが、長良プロダクションだった。創業社長の長良じゅんは、CDデビュー前に1年間、氷川に地方をキャンペーンに回らせる。そうやって名前と声を覚えてもらい、一挙に売り出そうという作戦であった(※4)。果たしてこれが功を奏し、2000年2月に発売したデビュー曲「箱根八里の半次郎」は170万枚の大ヒットを記録、同年暮れには日本レコード大賞の新人賞を受賞し、紅白歌合戦にも初出場した。氷川の成功が、このあと若手の男性演歌歌手が続々と登場する契機となったことは間違いない。

2003年にはゴールデン・アロー賞大賞を獲得 ©文藝春秋

「感謝の気持ちで歌う」と力を抜くことも覚えた

 ただ、人気が出たおかげで、多忙をきわめ、仕事への責任感からプレッシャーも抱いた。このころ、公私にわたって氷川をかわいがっていた女優の中村玉緒は「力を抜かないで、頑張りすぎるのが心配」と指摘していたという。実際、デビュー5年目の2004年7月には、折からの猛暑に過労も重なり倒れてしまい、渋谷公会堂でのコンサートもキャンセルになった(※4)。

2003年ハワイ公演での一幕 ©文藝春秋

 しかし年を重ねるにつれ、しだいに力を抜くことも覚えるようになる。2014年のインタビューでは、その2年前に亡くなった長良からよく言われた「“歌わせていただいている”という感謝の気持ちで歌うんだよ」という言葉を噛みしめて頑張りますと口にしたあと、続けてこのように語っていた。

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《あ、でも、あんまり自分にプレッシャーをかけたり、力んだりせずに、ですが。15年目の氷川きよしのモットーは、“気負わず自然体”。その姿勢を維持しながら、向上心を忘れず、演歌歌手としてさらなる飛躍を目指していきます!》(※5)