文春オンライン

《追悼・竹内結子さん》「私の家は複雑なので、戻る場所はない」最愛の母との死別が“女優魂”を支えた

note

あだ名は「ケツコ」、夢は「体操の先生」

「ショートカットが印象的で男子からのあだ名は、『結子』という漢字から『ケツコ』でした。バスケ部にも入っていましたが、本人は体操の先生になることが夢だったようです。マンションの子供たちで集まって小学校へ登校するのですが、6年生の時に結子ちゃんは副班長をしていて、毎朝列の後ろから低学年の子供たちをしっかり世話していました」(小学校の同級生)

 しかし、幼い竹内さんを思わぬ不幸が襲った。最愛の母が急死したのだ。その時のことを「とても可哀想だった」と振り返るのは別のマンション住人。

朝ドラ主演当時、20歳の頃の竹内結子さん(2000年) ©時事通信社

「結子ちゃんはお母さま似で、とてもキレイな方でした」

「結子ちゃんはお母さま似で、お母さまは若くて、とてもキレイな方でした。ご両親と出掛けるときに私が『いってらっしゃい!』と声を掛けたら、『いってきます!』って嬉しそうにしていた笑顔が忘れられません。ある日、お母さまの具合が悪くなり、マンションのエレベーターホールで、歩くことが困難になっているお母さまをご主人がおんぶして歩いているのを見掛けました。そして、結子ちゃんがまだ中学生くらいだった頃に、お母さまが病気で亡くなられたのです。本当に優しい雰囲気の人でした」

ADVERTISEMENT

 竹内さんは地元の中学に入学すると、家庭科部に入部。親しい友人には新たな「夢」を打ち明けていたという。

「結子さんは中学校の運動会で見かけて、可愛かったからすごく覚えているのよ。頻繁に東京へ足を運んでいた子で、娘から『修学旅行の時に結子ちゃんが芸能人になりたいって言ってた』って聞いていたから、『あの子なら絶対なれるねー』って話していたの。行事ごとに参加するお父さんは見たことがなくて、忙しかったのかもしれませんね。娘とは結子ちゃんのドラマもよく見ていました」(中学校の友人の母)