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1999年、江藤智が広島から巨人へ――FAが生んだ奇跡の物語

文春野球コラム ペナントレース2020

2020/10/16

 巨人の優勝が迫る今月13日、私は巨人−広島戦の試合をテレビで観戦していた。それまで破竹の13連勝を成し遂げていたエース菅野に打ち勝ち、カープの勝利が濃厚となった9回裏、バッターボックスには丸。フルカウントからバットを振り抜いた瞬間、私は思わず「うわ」と声をあげる。結果は左中間へのホームラン。点差が縮まり一気に緊張感が増した瞬間だったが、それ以前に私は「やっぱり丸。すごいな」と感心していた。そんな丸。カープから移籍して巨人の一員になってホームランを放つ丸。彼を見て、私はひとりの男を思い出した。丸と同様、カープから巨人に移籍した江藤智だ。

歴史的な光景だった「背番号33の伝承式」

 江藤がFA宣言をしたのは1999年。貴重な右の和製大砲のFAは大きく注目され、連日その動向がスポーツ紙やニュースで報じられた。本命とされていたのは横浜。スポーツ紙では「江藤、横浜“ハマった”」などの見出しが踊り、江藤の横浜入りは確実と思われていた。しかし、当時、不動のサードとして活躍しつつFA宣言をしていた横浜の進藤達哉の電撃残留が決まったことで状況が一変。江藤獲りは延長戦に突入し、そこに巨人が本格参入。まさか巨人には行かないだろう。いや、東京出身だからあるんじゃないか。いやダメだ。巨人は、巨人だけは勘弁してくれ。すべてのカープファンが不安を抱く中、私は「ある大きな不安」を抱いていた。

 それは江藤の背番号。当時、江藤がつけていた背番号は33。当時の監督だった長嶋さんの背番号も33。もし長嶋さんが江藤に背番号を譲ると言ったら、それはもうハンパない殺し文句になる……。すると、悲しいことにその不安が的中。長嶋監督が本当に「33番を江藤君に譲る」と言ったのだ。本来ならそれだけでも充分なエピソードだが、なんと長嶋さんは、自身の33番を江藤に譲ると共に自らの永久欠番である「背番号3」を復活させるとまで言ってしまったのである。

 終わった。完全に終わった。チェックメイト。その言葉で動かない選手がどこにいるだろう。一体、そんな長嶋さんの熱烈な誘いを誰が断れるだろう。マスコミも一気に「江藤、巨人」を確定路線として報道、紆余曲折を経て江藤は巨人入りを果たした。

 当時の私は、カープの中で最も江藤が好きだった。バットを前に傾けるゆっくりとした構えから繰り出される一撃。滞空時間が長く、美しい放物線を描くホームラン。それがとにかく好きだった。江藤の移籍から20年が経過したが、右の和製大砲であれだけ美しいホームランを打つ選手はなかなかいない。江藤はホームランバッターというよりはホームランアーチストだと私は思っている。

広島時代の江藤智

 江藤が「巨人の選手」となって迎えた2000年のキャンプ。マスコミは長嶋さんの背番号3がいつお披露目されるか、連日のように報道していた。そして、ほどなくして訪れた春のキャンプ。赤い背番号33から黒い背番号33に変わった江藤にノックをすべく、長嶋監督がグランドに登場。周囲はお祭り騒ぎ、一気に群がるマスコミ。そしてついにその瞬間が訪れた。バットを持って現れた長嶋監督がコーチにそのバットを渡し、着ていたウインドブレーカーに手をかける。大歓声、シャッター音、異様な空気。笑顔の長嶋監督が、ついにウインドブレーカーを脱いだのだ。背中には「3」の数字。周囲からは大歓声が巻き起こり、一気にグランドの熱量が上がる。そして、そこから「背番号33の伝承式」と言わんばかりのノックが始まった。巨人を「最大の敵」としていた私だが、あのノックだけは何度も見た。それほど歴史的な光景だったのである。