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「これからが勝負ですね」山形生まれのドラ1・横山雄哉と母の物語

文春野球コラム ペナントレース2020

2020/10/21

 忘れた頃に……今年もまた届けてくれた。甘い香りが閉じ込められたずっしり重いダンボール。配達伝票に記された送り主を見て、表情が緩んでしまうのもいつものことだった。6月。山形県産の「サクランボ」を眺めながら文字を打ち込み、スマートフォンからショートメールを送った。

「今年もありがとうございます!」
「お世話さまです。たくさん食べてくださいね!」
「また甲子園でお会いできることを楽しみにしてます」
「また会える日が来ますように……」

 サクランボの“便り”を機に横山昌子さんとはいつもこんなやり取りになる。昌子さんにとっては息子、僕にとっては思い入れ強い取材対象者。横山雄哉の活躍、いや、彼が甲子園に戻ってくることを願って自然にメールのやり取りは終わる……ただ今年は「これからが勝負ですね」と一言付け加えられていた。

横山雄哉

温かさに溢れていた横山家との出会い

 その時点で、最後に1軍マウンドに上がったのは3年前の17年まで遡らなければいけなかった。不振で昇格のチャンスを逃していたわけではない。18年8月に左肩にメスを入れ、リハビリに入ると同時に育成選手契約に切り替わった。背番号も14年のドラフト1位で入団して以来付けていた15から115に変更。昨季途中に2軍戦で約1年ぶりの実戦復帰を果たし、今年は支配下登録返り咲きへ勝負の1年を戦っていた。

 6年前。10月といえども、山形には関西とは明らかに違う冷気が漂っていた。人生で初めてやってきた地には必要以上の厚着で降り立った。少しだけ緊張して空港の出口で待つ僕を迎えに来てくれたのが昌子さんで、ハンドルを握っていたのは父・康則さんだった。スポニチの阪神担当は毎年、ドラフト指名された新人選手の足跡をたどる連載を取材、執筆する。家族、恩師、友人……あらゆる人物を取材し1人の野球少年がタテジマのユニホームに袖を通すまでを文字として記録する貴重な機会と、出会う人たちとの縁はその後にも生きていく。社内では若手虎番の登竜門とされる企画。当時、記者5年目だった僕はタイガースが1位指名した横山雄哉という選手の人生をたどるべく、ドラフト会議の数日後に彼の生まれ故郷にやってきていた。

 事前に電話で取材の旨を伝えると「空港から家は距離があるんで迎えにいきますよ」と返ってきた昌子さんの言葉に甘えさせてもらった。空港から向かった人口1万人、県内の市町村では最も面積の小さい中山町。自宅には兄の紘基さんだけでなく、賑やかな声が広がっていた。待っていたのは小学生時代のチームメート5人。「みんな呼んでおきました」。こちらの取材がはかどるようにと、横山のことを最も知る人物、そして小、中時代の監督2人も集めてくれていた。テーブルに並んだ手作りのいも煮、玉こんにゃくといったご当地の家庭料理を口にしながら話を聞いた。これ以上ない気遣いに触れた1日。「取材」とは少し違う「同窓会」のような空気をたっぷりと吸い込んで僕はたくさんの“お土産”を両手に提げて帰りの飛行機に乗った。

横山雄哉の連載紙面 ©スポーツニッポン

 横山家との出会いはそんな温かさに溢れたものだった。その年の年末、初めて会った横山本人に名刺を渡すと「母から聞いてますよ。これからよろしくお願いします」と頭を下げられた。将来の先発ローテ候補として抱えきれないほどの期待を背負ってプロへの一歩を踏み出した左腕。あの小さな町から、あの仲間たちに送り出された20歳の背中を自然と僕も追いかけたくなっていた。だが、筆力を強めて原稿を書く機会はなかなか訪れなかった。1年目は巨人戦でプロ初登板を経験し、2年目の16年にプロ初勝利を挙げたものの2勝止まり。17年も1軍で1試合に登板しただけで、シーズンを終えている。