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 古い記憶がある。学校から帰った小学生の私は、家の前のホースで友達と水遊びをしている兄ちゃんを見た。二人ともこれでもかというほど笑い転げ、水しぶきとともに弾けていた。私は聞いた。

「何してるんー?」

 兄ちゃんは言った。

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「こいつの足くさいから洗ってんねんー!」

 友達は言った。

「そやねーん!」

 目眩がしそうなほどバカな会話だ。それでも、家のドアを開ける手が止まった。あ、言ったことない言葉、と思った。

©大村祐里子

 足が臭い友達が欲しいわけではない。まじで要らない。何でも言い合える相手が欲しいのとも違う。でも「洗ってんねんー!」もその後の「そやねーん!」も、どんな口触りなんだろうと想像した自分がいた。私も2年経てば。いや、そんな場面は訪れないだろう。女の子が友達に対してネガティブなことを告げるとき、あれほどの明るさは伴わない。さらに受け手が自虐を覚えるのはずっと先だ。当時はそんなふうに分析はできなかったが、そんなうっすらとした予感が、二人の水浴びから目を離せなくしていた。

コントで「医者を演じることは女医を演じること」への迷い

 コントで迷うことがある。医者を演じることはつまり、女医を演じることになってしまう。意味合いが大きく変わってくるのだが、女が演じるのだから当然だ。そんな当たり前を、うまく咀嚼できない。私はコントで、聴診器を使って遊びたかっただけだ。私はコントで、友達の足を洗いたいだけなのだ。

©iStock.com

 兄ちゃんはかつて付き合っていた彼女に浮気がバレて、買ったばかりのパソコンを真っ二つにされたことがある。

私「どうしたんー?」

彼女「パソコン割ったってんー!」

兄ちゃん「そやねーん!」

 とはならない。

 実際は、兄ちゃんが泣いて謝ったらしい。何の価値もない涙である。

イルカも泳ぐわい。

加納 愛子

筑摩書房

2020年11月18日 発売