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「高学歴は使えない」は本当だった? 学校が率先して“マニュアル人間”を育てる異常な理由

高校教員が直面した教育現場のゆがんだ実態

2020/11/19

genre : ライフ, 教育, 社会

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 リスク管理のために「指導する人間を担任の目の届く範囲に限定すること」は、生徒の選択肢を狭め、さらには「専門家以外による質の低い指導」を是認することにならないか。学校にはさまざまな分野の専門家がいるのであり、その知的資産をどう使うのかは生徒の自由である。

 たとえば野球部の生徒が、「ウチの顧問は戦術についてはよく知っているけどトレーニングの知識はないから、別の先生に筋トレのことを聞いてみよう」と判断したとして何がいけないのだろう。本来知識とはそのように横断的なものであって、独自の関心にもとづいて繋がっていく「知識の体系」こそ、生きる力の土台となるものなのではないか。それともやはり、「トレーニングで怪我をした際の責任の所在」というやつを考慮しなければならないのだろうか。

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 高校生ともなれば、誰から何を学び、また何を学びえないかを取捨選択し、勝手に好きな分野の力を伸ばすべき……というのはきっと、“教育者”としては怠慢な考え方なのだろう。

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 社会に出れば、自分にとって有益な情報をもたらす人間には積極的に近づき、自身に意義をもたらさない人間の話は適当に受け流す、という姿勢は必須のもののように思えるのだけれど。

「記述問題はいちゃもんつきやすいから控えて」

 クラス数が多く、一つの教科を複数の教員で担当する場合には、試験問題の作成は基本的に順番で担当することになる。作成した問題は相互にチェックすることになるが、こういう時に「指導方針の違い」というものが浮き彫りになる。

 初めて作成の担当となり、私は穴埋めや選択式の問題のなかに、二つだけ記述式の問題を入れた。学力の低い学校の試験問題は、「教科書の太字部分を丸暗記」で満点が取れるようなものも多いが、それだけでは学習意欲の高い生徒が退屈だろうと考えてのことである。

 しかし別の担当教員によるチェックの際、記述問題に対してダメ出しが入る。

「記述はなぁ……いちゃもんついたときに説明しにくいから。マルバツとかにしてよ、工夫して作ればマルバツでも理解度ちゃんと測れるんだし」

 たった2問の記述問題にケチをつけられるとは思いもよらず、私はとっさにそれを受け入れてしまった。「マルバツの選択肢を用意せず記述に逃げるのは怠慢」と、自身の落ち度を指摘されたような思いに囚われていたのである。