自分は将来、自然と偉くなるものだと思っていた。小中高と、クラスで一番勉強ができていたし、親も教師も私を特別な子どもとして扱っていたから。
しかし誰もが気づいている通り、教育課程における「いい子」と、社会における「有能な人間」は同じではない。それどころか、学校での指導に忠実であるほど、社会では「使えない人間」になってしまうケースもしばしばある。かく言う私自身が、そういうケースの典型だった。
高校受験で筑駒を蹴り、早稲田の付属に入学した後、学年成績上位者3名に支給される奨学金を得る。そのあたりが私の人生のピークだった。
34歳になった今、月収は額面で15万円ほど。勉強はできても、社会性や機転、応用力にことごとく欠ける私は、職場での人間関係を構築することができずに職を転々とし、普段は結局一文字いくらのフリーライターとして細々と活動している。
巷にあふれる「かつての神童」
一体なぜ、学校では誰より優秀だったはずの私が、社会のはみ出し者のようになってしまったのだろう。
私のこの鬱屈とした疑問は、おそらく私自身だけの問題ではない。巷にあふれる「高学歴ニート」や「東大卒フリーター」を題材としたコンテンツからも、悲惨な現状を送る「かつての神童」はこの国に数多く存在していると推察される。
「優等生の没落」が一般的事象であるのなら、もはや学校教育そのもののうちに、何か根本的な歪みが生じている可能性を考えなければならない。すなわち、「学校教育で良しとされる能力・特性」と、「社会で要求される能力・特性」との間に、矛盾・対立があるのではないか、ということである。
優等生として「使えない人間」へと育ち、自身も教育現場に携わった者の目線から、学校教育における歪みの正体に迫ってみたい。
優等生への「ひいき」が“真面目系クズ”を育てる
学校生活のなかで、優等生の人格形成に決定的な影響を及ぼしていると思われるのは、教員からの「特別扱い」である。同じ悪さをしても、優等生は叱られにくい。学校生活をテーマにしたドラマや漫画では、「教員からの特別扱いを悪用する腹黒優等生」のようなキャラクターがしばしば登場するが(「3年B組金八先生」第5シリーズで風間俊介が演じた「兼末健次郎」はいまだに印象深い)、それだけ「優等生へのひいき」に対する問題意識は肌感覚として共有されているのだろう。
実際に私自身も、「ひいきされる側」として育った自覚がある。中学生の時、私が誤って窓ガラスを割った時も、放課後に携帯をいじっているのが見つかった時も、私は注意すらされず、親にも連絡が行くことはなかった。一方で、「不真面目」と教員から見なされた生徒はしばしば携帯を没収されていたし、「いたずらっ子」のクラスメイトが窓ガラスを割ったときには、教員から烈火のごとく叱責されていた。