「生きる力」を培う教育は可能なのか
しかし冷静に考えて、正誤問題と記述問題では必要とされる能力が異なるのは明らかだった。短い言葉であっても、何も用意されていないところに自らの言葉で説明を与える、というのは脳に特別な負荷を与えるものであり、訓練なしにできることではない。
社会においては、答えようのない問いに対して何かしらのエクスキューズをひねり出すことが常に求められる。「用意された選択肢から適切なものを選ぶ」なんて場面は、「スマホのプランをどれにするか」といった消費活動の極めて限定的なケースにおいてしか生じない。学習指導要領に示される「生きる力」がスマホプランを見極める力を意味しているのなら、もはや私は何も言わないけれど。
斜め上からの解答でも、ウケを狙った解答でもいいのである。記述問題を出して、そういう解答をしてきた生徒に対して返却時にコメントをつけてやれば、次回の問題でもその生徒は工夫を凝らした回答をしてくる。点数にはならないけれど、すぐに忘れる穴埋め問題を繰り返すよりよっぽど「生きる力」につながると思うのだが、それは私の勝手な解釈なのだろう。
事なかれ主義がマニュアル人間を作り出す
上に挙げた話はほんの一例にすぎない。教員一人ひとりの「事なかれ主義」が、組織全体に監視と管理の網を張り、クレームを発生させないよう無言の圧力をかけてくる。非常勤ですらシガラミを感じるのだから、実際に専任として勤めていれば、リスク回避のために雁字搦めになってしまうことは想像に難くない。「この程度で文句を言うな」という声が、方々から聞こえてきそうである。
ここまでさんざん批判を繰り返してきた私自身も、学校教育の「事なかれ主義」に少なからず染まっていた自覚がある。テスト範囲を終わらせるために意欲の高い生徒からの質問に十分答えられなかったり、授業中の居眠りやスマホ操作をスルーしたり、面倒事を避けようという動きを挙げればキリがない。そもそも上に挙げたような問題に対して、その場で反抗することができず、このような形で槍玉にあげていることがすべてを物語っている。
教員の責任回避の傾向は、生徒の自主性を損なう根本原因の一つである。トラブル回避を最優先事項としているのだから、当然生徒を見る観点は「トラブルの種を抱えているかどうか」である。面倒な親を持つ生徒は腫れもの扱い、反抗の素振りも見せない従順な生徒がもっとも望ましい。事なかれ主義が「いい子ちゃん」を生み、マニュアル人間を大量生産していくわけである。