前回は「撮影用模型としてのミレニアム・ファルコン」と、それを完璧に縮小再現したバンダイ製プラモデルの魅力について主に語った。今回はいよいよ「スター・ウォーズ世界でファルコン号が果たしている本当の役割」、そして「なぜ、ファルコン号の船長はハン・ソロでなければならなかったのか」「なぜ、新三部作で主人公のレイはファルコン号の新たな主となったのか」という核心部分について論じていきたい。
「根をもつこと」と「翼をもつこと」との相克
その謎を解く鍵となるのが、ジョージ・ルーカスがスター・ウォーズに先立ち、監督した映画「アメリカン・グラフィティ」だ。
この映画、ルーカス自身が青春を過ごした1960年代初めのアメリカ西部の田舎町、モデストを舞台に、高校を卒業した直後の若者たちの一夜を描いているのだが、驚くべきことに、この作品のテーマは、「スター・ウォーズ」シリーズ全体のテーマとまったく同じなのだ。
それは、社会学者にして思想家でもある見田宗介(筆名・真木悠介)の言葉を借りれば「根をもつこと」と「翼をもつこと」との相克と言えるだろう(『気流の鳴る音 ─交響するコミューン』ちくま学芸文庫)。
「アメリカン・グラフィティ」に登場する若者たちはいずれも、人間が根源的に持つこの二つの欲求の間で引き裂かれている。故郷を出て大学に進学しようとする若者たち、つまり「翼を得ようとしている者」は、故郷に残す恋人や友人たち、すなわち「自らのルーツ(根)」への思いを絶ちがたい。一方、才能やお金に恵まれずこの町で暮らし続けるしかない若者たちは、「自分はこの町に永遠に縛られ続け、外の世界で羽ばたくことはかなわないのか」という絶望感にさいなまれている。
彼らのこうした相克が一夜のらんちき騒ぎにつながり、彼らのその後の運命をも左右していく――。それが、「アメリカン・グラフィティ」という物語の基本構造だ。
そして、この映画で登場人物の若者たちと同じぐらい、あるいはそれ以上に愛着をもって描かれているのが、登場人物たちが乗る1950年代のアメリカ車たちだ。登場人物は物語の大半のシーンで車に乗り続け、ほとんどの物語は車の中で進んでいく。それぞれが乗る車はまるで、登場人物自身の精神の分身(「ジョジョの奇妙な冒険」の「スタンド」!)であるかのようにさえ見える。
彼らにとって「車」とは、「ホームに居続けたい(根をもつ)」という欲求と「外の広い世界を見たい(翼をもつ)」という欲求の間に引き裂かれそうになっている自らの心を、柔らかく包み込み、かりそめの安定を与えてくれる「移動するホーム」なのだ。
「かりそめの家」でもあり、「外の世界との接点」でもあるという両義性。それが、ルーカス自身を含むかつてのアメリカの若者たちにとって、車という存在の持つ意味だった。
勘のいい読者はすでにピンと来たと思うが、スター・ウォーズ世界の中でミレニアム・ファルコンが果たす役割も、これとまったく同じ。つまり、ファルコン号とは、ルーカス自身が青春時代に乗り回した車が、スター・ウォーズ世界に「転生」した姿だったのだ。