ファルコン号のコクピットは前2席、後ろ2席という宇宙船としては他に例のない配置だが、これも「車に乗っているかのように撮りたい」「車の中で生じるようなシチュエーションを再現したい」という演出意図に基づくものだと考えれば、納得がいく。実際、ファルコン号のコクピットで繰り広げられる登場人物たちのバカ騒ぎや痴話ゲンカは、「アメリカン・グラフィティ」の再現そのもの。
ちなみに、ファルコン号の船長ハン・ソロを演じるハリソン・フォードは「アメリカン・グラフィティ」にも登場しているが、その役どころは「自慢の車に乗ってアメリカのあちこちの街に出没しては、その街の腕自慢に自動車の草レースを挑む」という風来坊。つまりは、ソロのキャラクターとほとんど一緒なのだ。
それでは、なぜファルコン号の船長は「ハン・ソロ」でなければならなかったのか。
答えは「主要登場人物の中でソロだけが、どっちつかずのモラトリアム的存在」だから。
確かに彼は故郷の星コレリアから出て、一見自立したタフガイに見えるが、生計を立てているのは密輸というヤクザでチンケな稼業。しかも、稼いだカネの大半をファルコン号の改造に費やしてしまい、いつも借金取りに追われる身。どう見ても、地に足のついた大人じゃないし、かといって「翼をもつ」と言えるほどの大志もない中途半端なヤツなのだ。
そして、モラトリアムであるが故に脆弱な彼の精神のよりどころとなっているのが、「ミレニアム・ファルコン」だ。彼のファルコン号に対する愛着の深さ、こだわりは劇中で執拗に繰り返される。つまり、ルーカスは「ハン・ソロってかっこよく見えるけど、実はオタクのモラトリアム野郎なんだよ」というメッセージを観客に発信し続けているのだ。本当の「大人」ならば、オンボロのファルコン号にこだわりなど持たず、平気でもっと高性能の船に乗り換えるに違いないのだから。
「アメリカン・グラフィティ」作中で、車の改造に明け暮れる不良少年が、愛車に自らのアイデンティティーを見いだすように、半端なソロにとってファルコン号は「自我の一部」なのだ。
一方、「エピソード4~6」の主人公のルーク・スカイウォーカーには「フォースを学び、ジェダイ騎士になりたい=翼を得たい」という強い憧れはあっても、「根をもつこと」へのこだわりはさほどない。ルークが物語の序盤で早々とファルコン号を降り、それ以降は一貫して「Xウイング」という1人乗りの戦闘機で旅を続けるのは、その象徴だろう。
そしてヒロインのレイアは「反乱軍の重鎮」であり、しっかりとした根をもつ存在である。レイアは「フォースが強い家系」の一員だが、「フォースを学ぶ=翼をもつ」ことへの関心はない。こうした点から見ても「モラトリアム人間のかりそめのホーム」であるファルコン号の船長にふさわしい主要キャラは、ソロだけであることが分かるだろう。
しかし、ソロはレイアや反乱軍と行動を共にするうちに、次第に「仲間意識」「責任感」が芽生えていく。そしてついにはレイアと結ばれ、物語の終盤の「エピソード6 ジェダイの帰還」では反乱軍の「将軍」に就任する。つまり彼は「しっかりとした根をもつ存在=大人」になったのだ。
まさにそれと同時に、彼はファルコン号の操縦席を旧友に譲り、自らはレイアと共に別の任務に就く。モラトリアムの時代が終わると同時に、彼とファルコン号との関係が終わりを告げるのは「物語上の必然」と言えるだろう。彼はこの時、ルークのように「翼をもつこと」ではなく「組織の一員として、レイアと共に生きる=根をもつこと」を選択したわけだ。
さらにいえば、現在進行中の新三部作で、「家族が戻ってくるかも」という思いから故郷の星に縛り付けられていた主人公レイが、外の世界に出るためにファルコン号を必要としたのも、「モラトリアム人間にとってのかりそめの家」というファルコン号の物語上の役回りを考えれば納得がいく。同じく、家族の葛藤から逃げ出して密輸稼業に戻り、再びモラトリアム人間となった年老いたソロが、ファルコン号に戻り「We’re home」とつぶやいた理由も。ソロもまた、自らのうちの「根をもつこと」と「翼をもつこと」との葛藤を、ついに克服できなかった人間だった。