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 その後、加藤は2002年に秘書の脱税事件などの責任をとって議員を辞職、翌年の総選挙で返り咲いたものの、自民党が民主党から政権を奪還した2012年の総選挙で落選。そのまま政界に復帰することなく、2016年に77歳で亡くなった。

 野中も、小泉政権の姿勢に疑問を抱いて2003年に政界を引退、自民党内でのリベラル派の凋落を嘆きながら2018年、92歳で死去した。

加藤(右)と山崎拓 ©文藝春秋

「加藤の乱」が失敗に終わった背景には、1994年に導入された小選挙区制の影響も大きい。かつての中選挙区制の時代には、自民党は常に単独過半数の確保を目標としたため、各選挙区で必ず複数の当選を目指して多くの公認候補を擁立した。そのなかで党内の各派閥はしのぎを削った。

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 しかし、小選挙区制が導入されると、1つの選挙区につき各党が公認する候補は1人だけとなる。そのため派閥の選挙応援よりも、党の公認の重みが増した。「加藤の乱」は、自民党の中枢が選挙での公認権を切り札に議員を従わせた最初のケースであり、派閥秩序の衰微があきらかになった。

派閥衰微時代の“申し子”ともいえる菅総理

 そんな派閥衰微の時代の申し子こそ菅義偉だった。じつは彼は「加藤の乱」の2年前の1998年にも、造反側に回っていた。

 それは橋本龍太郎の後任を決める自民党総裁選に、菅が慕っていた梶山静六が小渕恵三、小泉純一郎とともに立ったときのこと。梶山は所属する派閥の領袖である小渕に反旗を翻し、小渕派(平成研究会)を離脱したうえでの立候補であった。

2009年の衆院選では選対副委員長を務めた菅氏 ©文藝春秋

 このとき菅は梶山と行動をともにし、1年生議員ながら梶山選対の事務局次長を担った。結果は小渕の完勝で、梶山は敗北を喫する。菅はのちに《このときが自分の政治家としての原点ですよね。最後は自分で決める。党に守ってもらうことはもう考えなくなった》と振り返っている(※2)。

 菅はそれからしばらく無派閥だったが、梶山の計らいで加藤派(宏池会)に移り、そこで「加藤の乱」を経験することになった。乱の後、加藤派は親加藤の小里貞利派(のちの谷垣派)と反加藤の堀内光雄派(のちの古賀派)に分裂、菅は堀内派に合流する。だが、彼はその後も派閥のしがらみにとらわれることなく、自らの信念に従って行動する。

 2006年、小泉純一郎の後任を決める総裁選では、派閥の違う安倍晋三の支援に回った。このとき安倍の属する森派(清和会)の会長の森喜朗は当初、同派の福田康夫の擁立を先行させ、安倍に立候補を思いとどまるように求めたという(※2)。安倍はこれに反発、菅に自分の事実上の支援団体になる「再チャレンジ支援議員連盟」を立ち上げさせた。

 同連盟には派閥横断的に多くの議員が参加し、福田は出馬断念に追い込まれる。これに勢いづいた安倍は総裁選に勝利し、第1次内閣を発足させた。菅は「加藤の乱」以来の因縁の相手である森に、ここでやっと一矢報いたともいえる。