沖縄戦の激戦地で重傷を負い、暗闇の「アブチラガマ」に青酸カリを渡され置き去りにされた日本軍兵士・日比野勝廣。彼は奇跡的に生還を果たし、戦後は人形職人として4人の娘を育て上げたが、「なぜ自分だけが生き残ったのか」という考えから逃れられることが出来なかった。

 こちらは、『ルポ 戦争トラウマ 日本兵たちの心の傷にいま向き合う』(朝日新書)の特別公開第三弾。同書の一部を抜粋し、激しい生存者の罪悪感に苦しみ、死の直前まで戦場をさまよい続けていた寡黙な父の“心の傷”と、それを継承する娘たちの姿を紹介する。

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見捨てられた負傷兵

 日比野勝廣は1923年に愛知県で生まれた。19歳で陸軍に入隊し、独立歩兵第23大隊第4中隊に編入されて中国戦線で1年半戦った。サイパンが陥落して「本土決戦」が避けられなくなった1944年8月、沖縄に投入された。1945年4月1日には米軍が沖縄本島中部の西海岸に上陸。海を埋め尽くした敵艦は、のちに「鉄の暴風」と言われる激烈な艦砲射撃を繰り返した。日本軍兵士は次々と砲撃や火炎放射を浴びた。足がちぎれ、両目が飛び出し、全身焼けただれた死体があちこちに転がった。

 日比野は12人の部下をもつ分隊長として、最前線の嘉数(かかず)高地(現・沖縄県宜野湾市)にいた。激しい戦闘が続く中、爆薬を抱えて戦車の下に飛び込む肉弾攻撃を部下にやらせた。床に落とした卵のように、人間がつぶれた。

写真はイメージ ©︎AFLO

 日比野は、壮絶な戦場の記憶を手記に残している。

 5月2日、近くの安波茶(あはちゃ)(現・浦添市)の山の中腹で約200人の米兵と相対した。こちらは8人。機関銃が乱射され、砲弾が撃ち込まれた。その時のことだ。日比野は灼熱の鉄棒で殴られたような衝撃を受けた。右腕と右足から生温かい血が流れ出した。隣にいた兵士は、一瞬にして体が散り散りにふっ飛び、肉片が近くのソテツの葉に、服の切れ端と共に引っかかっているだけだった。7人の遺体は発見できず、気を失っていた日比野だけが後から救出された。

 退却を重ねながら、いくつかの野戦病院を経て、日比野がなんとかたどり着いたのが、陸軍病院の分室として使われていた自然壕の「糸数アブチラガマ」(現・南城市)だ。腕と足を負傷した日比野は担架に乗せられて運び込まれた。病院の分室といっても、実態は野戦病院。全長270メートルのガマには600人以上の負傷兵がひしめきあっていた。

 5月下旬、米軍が迫る中、日本軍は病院の撤退を決めた。歩けない患者には青酸カリが渡され、置き去りにされた。その数は百数十人。日比野もその1人となった。

 食べ物も水もない。膿んだ傷口からは、ウジが湧いた。破傷風に冒され、激しいけいれんも続いた。のどの渇きと飢え、そして、激痛。暗闇に包まれたガマの中で、周りの負傷兵は次々と息絶えていった。身動きのとれない日比野の耳に、地下水の流れる音が聞こえてきた。「あの水さえ飲めれば死んでも悔いはない」。そう思うほどの渇望に襲われていた。