娘たち4人との距離
日比野は1961年、戦後初めて沖縄を訪問した。以来、戦友らと通い続け、戦跡を巡拝した。そんな日比野を、娘たちは距離を置いて見ていた。夫と共に家業を継ぎ、愛知県北名古屋市で日比野と同居していた長女の裕子は、家業をそっちのけで年に何回も沖縄に足を運ぶ父にいらだった。「いい加減にしてほしいと思っていた。『戦友』『沖縄』という言葉を耳にするだけでイヤだった」と裕子は振り返る。
変化するのは、2000年を過ぎてからだ。この頃になると、戦友たちが次々と鬼籍に入り、年老いた日比野の付き添いを娘たちが交代で務めるようになっていった。行動を共にすることで、日比野の思いに触れることも増え、裕子らは少しずつ理解を深めていく。
妻の宣子が2003年に亡くなると、日比野は、不眠や原因不明の頭痛に悩まされ、抑うつにも陥った。日比野は暗闇が大嫌いだ。特に宣子の死後は、夜も電気をこうこうとつけたまま寝た。ぐっすり眠っている様子を見て、同居する裕子がそっと電気を消そうとすると、日比野は瞬時に目を覚まし「消すな!」と声を上げた。部屋の外にある水道の蛇口も開けっ放しだった。ガマで水を求め続けた日比野は、水の音を聞くと安心できたのかもしれない。
晩年は、近くに住む次女の糸子(74)と、同居する裕子が、日比野の日常を支えた。同じ愛知県内に住む四女の桂子(71)は講演などに同行し、秘書役を務めた。沖縄戦について集会や取材で体験を語った日の夜は、日比野は必ずうなされた。
神奈川県藤沢市に住む五女のたづ江(69)は、毎晩7時頃に日比野に電話するのが役目だった。
「なぜあんなにムキになって殺したのか」
日比野が亡くなる1年ほど前のことだ。たづ江に電話をかけてきた日比野が電話口でボソボソと話し始めた。「この指1本で何人を殺してきたのだろう」と。そして、「寝転びながら、今日は(引き金を引いた)人さし指を眺め、1日中考えていた」と言葉を継いだ。たづ江は、日比野が抱えてきた心の痛みに触れた気がした。
「なんであんなにムキになって殺したんだろう」「個人的な恨みはないのに、あの人たちにも家族がいただろうに」。毎晩電話をする娘に、日比野は集会などでは語らない言葉を吐露した。「父の痛みの原点は、ガマの中で死んでいった人たちを救えなかったことと、戦争の相手の中国人、米国人を殺したことの2つがあったのではないか」とたづ江は語る。
次女の糸子は「父は暴力を振るうことなく、愛情をもって私たちを育ててくれた。だけど、どこかで自分だけ幸せになってはいけないという思いがあったように感じる」と述懐する。正月に家族で集まってワイワイ盛り上がっていると、日比野がすーっと自分の部屋に引っ込んでしまうことがよくあったという。



