しばらくして、米軍の攻撃で、壕の空気穴から爆薬が投入された。壕内に大きな爆発音が響きわたった。この時、爆風をまともに受けた日比野は、体ごと吹き飛ばされた。気づくと、寝ていた場所から5メートルほど下にあった地下水のたまり場付近に横たわっていた。水が飲めると思った日比野は這って体を動かし、腹いっぱい水を飲んだ。水で腹を満たすと少し元気が出てきた気がした。這いながら食べ物を探し、生気を少しずつ取り戻していった。その後、アブチラガマに避難していた住民の中に、わずかしかない自分たちの食べ物を日比野にも分けてくれる人がいて、日比野は生き延びることができた。

 投降したのは、敗戦後の8月22日。生き残った負傷兵は、日比野を含めて10人ほどだった。

夜中に寝室から叫ぶ声

 戦後に復員した日比野は、故郷に戻った。だが、無気力な状態が続いた。山の稜線を見ると敵が攻めてくるのではないかとおののき、雷が鳴ると艦砲射撃ではないかと身を伏せた。

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 そんな状態でも、日比野は戦友の遺族に手紙を出し、あるいは直接会って、戦友の最期の様子を伝えた。しかし、生きて帰った日比野に対し、「あなたはどちらに逃げて助かったのか」「要領がよかったのですね」などと言う遺族もいた。日比野は日記に「この言葉こそ私の最も恐れ、かつ胸中深く、突き刺す万本の針に似た痛い言葉でもある」と書き残している。「無事に帰った喜びよりも、生き延びたこの命の強さに苦しみを覚える」。自分だけが生き残った罪悪感を、日比野は生涯持ち続けた。

「サバイバーズ・ギルト」(生存者罪悪感)と言われるこの感情は、元日本兵がPTSDを抱える要因の1つとなることが少なくない。

 日比野は1948年に2歳年下の宣子と結婚し、人形職人として独立した。宣子との間には、長女・裕子(ひろこ、76)ら5人の娘を次々と授かった。三女を生後1週間で亡くしたが、4姉妹はすくすくと育った。

 しかし、戦争の記憶は日比野を苦しめ続けた。「う~」「やられた~」。夜中に、日比野の叫ぶ声が寝室から聞こえた。その苦しみに寄り添ったのは、妻・宣子だった。日比野が手記をまとめるのを手伝い、隣に寝る日比野を労った。宣子はこんな句を詠んだ。

 戦場の夢又見てかうなされる夫のひたいに汗にじみおり

 傷兵たりし夫の寝言に「やられたっ」と怯えて叫ぶことのときおり