死ぬまで戦場にいたままだった父

 日比野は2009年に85歳で亡くなるまでに、少なくとも110回、沖縄を訪問した。元日本兵に対しては厳しいまなざしがある沖縄だが、住民たちは日比野を「患者の兵隊さん」と呼び、温かく迎え入れてくれた。それでも、日比野が講演会などで話をすると、「日比野さんの戦争体験の語りは沖縄の悲惨さが伝わらない」「自慢げに語っている」「笑顔で話すことが許せない」などとの批判が寄せられることもあった。それを聞いた日比野は「本当に悲しいことを悲しくは話せない。悲しそうに話すと、悲しくなるから」と静かに、寂しげに語っていたという。

 日比野は4人姉妹にとって、寡黙で優しい父だった。しかし、死に顔は厳しかった。たづ江は「戦争とはいえ、人を殺したことの罪はなくならない。ひとりだけ穏やかに死ぬわけにはいかない、ということなのかな」と言う。亡くなる前も、日比野は病院で、「逃げるぞー」「水をくれー」と声を上げた。トイレの光が見えると、「あそこから逃げるぞ」と言って点滴を抜き、ベッドから転げ落ちるようにして逃げる姿勢を見せた。「父は死ぬまで、戦場にいたままだったのではないか。戦争の怖さを感じた」とたづ江は語る。

「戦争が始まったら逃げなさい」

 2024年の6月。沖縄の「慰霊の日」に合わせて、姉妹4人は5年ぶりに一緒に沖縄に出かけた。「慰霊と言うけど、私たちは父に会いに来ているのかもしれない」と四女の桂子は言った。さらに、「いま思えば、戦友会は父にとっての癒やしだったのだと思う」と付け加えた。

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 あれほど日比野が戦友や沖縄に関わることを嫌がっていた裕子も、日比野の魂はいまもガマにいると感じている。

 日比野はアブチラガマに入ると、必ず「おーい」と声を出した。「俺だけ生きて帰って悪かったな。今度生まれてくる時には、戦争のない平和な時に生まれてくるように母親に頼もうな」。亡き戦友たちに向かって、日比野はそう語りかけていた。

「人殺し反対」

「戦争が始まったら逃げなさい」

 父の残したその言葉をかみしめながら、4人は日比野らが建立した嘉数の慰霊碑、日比野が3カ月過ごしたアブチラガマなどをめぐった。戦後80年になる2025年も、4人姉妹はそろって沖縄に行く。

 四女の桂子と五女のたづ江は、それぞれが父・日比野の体験を語り継ぐ活動をしている。その影響もあってか、第3、第4世代にあたる4姉妹の子どもや孫の中には、日比野の手記などを読み、読書感想文を書いたり、戦争中の日系移民に興味をもって短期留学したりしている中高生もいる。娘4人、孫10人、ひ孫14人。日比野は戦争トラウマに苦しんだが、その戦争体験はトラウマとしてではなく、平和を考える基礎として、家族に引き継がれている。

 日比野さんのように戦場の記憶に苦しんだ元兵士たち。家庭で暴力を振るった父、酒に溺れた父、そしてその姿に怯え、自らも心の傷を負った子どもたち……。戦後日本の家庭に潜んできた、知られざる「もう一つの戦争」の全貌は、朝日新書『ルポ 戦争トラウマ 日本兵たちの心の傷にいま向き合う』で。

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