戦況悪化の中、生還不能な「人間爆弾」桜花の搭乗員を志願した湯野川守正中尉。「同じ負けるにしても負けっぷりというのはある」と決死の覚悟を固め、分隊長として出撃の内示を受けるが、そこには予期せぬ運命が待っていた。
戦争末期の桜花パイロットたちの姿を、ジャーナリストの神立尚紀氏の新刊『ドキュメント 軍人たちの戦後』(小学館)より一部抜粋してお届けする。(全2回の1回目/続きを読む)
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負けるにしても負けっぷりというのはある
格納庫に置かれた特攻機桜花を見て、第七二一海軍航空隊に着任した湯野川守正中尉(のち大尉)は、「ずいぶん単純な飛行機だな」と思った。茨城県の神之池基地。戦争の帰趨が誰の目にも明らかになった1944(昭和19)年11月のことである。
桜花は、1.2トンの爆弾に翼と操縦席とロケットをつけ、それを人間が操縦して敵艦に体当りすべく開発された超小型の飛行機で、人間爆弾とも呼ばれる。母機の一式陸上攻撃機に懸吊されて敵艦近くまで運ばれ、投下されるとおもに滑空で、ときには装備した3本のロケットを1本ずつ噴射して搭乗員もろとも敵艦に突入することになっていた。文字どおり一機一艦を屠ることを目的とした、帝国海軍の最終兵器だった。
湯野川は1921(大正10)年、羽州米沢藩士の血を引く海軍士官の次男として、父の勤務先であった長崎県佐世保に生まれた。1939(昭和14)年、東京の麻布中学校から海軍兵学校に七十一期生として入校。卒業後は戦艦伊勢、巡洋艦阿賀野乗組を経て飛行学生になり、練習機教程ののち大分、筑波の航空隊で零戦の操縦訓練を受けていた。
湯野川が筑波海軍航空隊にいた1944年8月、生還不能な「必死必中」の新兵器の搭乗員の募集が行われた。「新兵器」の詳細は知らされなかったが、湯野川は、「大きな国難のなかで、決死の覚悟は搭乗員なら皆持っていたと思いますが、一撃で必死に至る攻撃にはやはり多少の躊躇はありました。しかし、尋常な手段では勝てない戦争だとは自覚していたから、それがどんな兵器かはわからないが、有効な兵器があるならこれを立派に使ってやろうと決心しました。同じ負けるにしても負けっぷりというのはあると思っていましたからね。たった一つの命を有効に使ってやろうという気持ち。母が悲しむだろうと思いましたが、私は次男で一家の戦死要員のつもりでしたから」と回想している。
フィリピンでの神風特攻隊初出撃からさかのぼること2ヵ月あまり。すでに「特攻」は海軍の既定路線だったのだ。湯野川は翌日、「熱望」の意志を上層部に伝える。そして11月6日付で、新兵器・桜花を主戦兵器として編成された第七二一海軍航空隊(神雷部隊)に転勤を命ぜられた。
桜花をひと目見て、その単純でちゃちな姿にがっかりしたが、「いまの日本にこれしかできないのなら仕方ない。これでアメ公どもをひとりでも多く地獄に送ってやろうじゃないか」と思い返したという。



