慶應のレスリング部で活躍し、幻の五輪代表と目された水木泰氏。陸軍を避け「主計科士官」の試験に合格したはずが、届いたのはなんと「飛行予備学生」への入隊命令だった。徴兵の義務と予期せぬ配属に翻弄され、過酷な空の戦場へ投入された男の半生を、ジャーナリストの神立尚紀氏の新刊『ドキュメント 軍人たちの戦後』(小学館)より一部抜粋してお届けする。(全2回の1回目/続きを読む)
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かつて存在した多くの戦友会
私が旧軍人や遺族など、戦争体験者の取材を始めたのは「戦後50年」の1995(平成7)年のこと。当時は旧軍人の多くが存命で、大規模なものから小規模なものまで、多くの戦友会が活発に活動していた。
当初、私がもっぱらお世話になったのは元海軍戦闘機搭乗員で組織する「零戦搭乗員会」と、全海軍飛行予科練習生(予科練)卒業生を中心にした「財団法人海原会」、海軍の下士官兵出身の航空関係者の「特空会」だったが、ほかにも同期生の集い(海軍兵学校出身者は「クラス会」という)、各部隊ごとの戦友会、会社の海軍出身者で構成するネイビー会、果ては鉄道沿線ごとのネイビー会(西武池袋線ネイビー会や京王井の頭線ネイビー会など)と、数多くの戦友会があった。
毎年、5月27日の「海軍記念日」(1905年、日露戦争の日本海海戦で、日本海軍がロシア・バルチック艦隊に大勝した日。終戦まで「国の記念日」とされていた)には、熱海あたりで開催される戦友会に出席する、海軍の艦内帽をかぶったおじいちゃんたちが東京駅のコンコースを埋め尽くしていたものだ。
そして、取材を重ねるうちさらにいくつかの戦友会に呼ばれるようになった。なかでも皆勤に近く出席していたのが、東京・青山の伊藤忠商事本社地下の社員レストランの役員席で、毎月第三木曜日の17時から19時まで行われていた「伊藤忠ネイビー会」と、福沢諭吉が銀座に日本で初めて創設した社交クラブ「交詢社」で2ヵ月に一度、12時から14時まで行われていた「交詢社ネービー会」である。



