「誰を乗せるんだ」――1944年、戦局悪化の日本軍で設計者に提案されたのは命を機械の部品とする衝撃の兵器だった。怒声混じりの設計者の問いに、発案者である日本軍人が口にした「驚きの人物」とは?
これまで500人以上の元軍人・遺族にインタビューをしてきたジャーナリストの神立尚紀氏の新刊『ドキュメント 軍人たちの戦後』(小学館)より一部抜粋してお届けする。(全2回の1回目/続きを読む)
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戦況悪化の日本で生まれた「人間爆弾」
31歳の大田正一少尉が、「人間を乗せるグライダー爆弾」、のちの桜花の素案をもって、海軍航空技術廠(空技廠)を訪ねたのは戦局が悪化の一途をたどっていた1944(昭和19)年7月のことである。
空技廠は、横須賀市の追浜に本廠、横浜市の金沢八景に支廠を置き、2000名の職員と3万2000名の工員を擁する、海軍の航空機開発、実験をつかさどる組織である。
桜花の機体設計を担当した三木忠直技術少佐が戦後、書き残したいくつかの手記や、元空技廠の技術大尉だった内藤初穂が三木に取材して書いた『極限の特攻機 桜花』(中公文庫)などによると、大田が「グライダー爆弾」の素案をもって空技廠に現れたときの模様はおおよそ次のようなものだった。
海軍航空技術廠長の和田操中将から設計課主任・山名正夫技術中佐のもとへ、「グライダー爆弾の案を持ってきた者がいる。説明するから廠長室に来い」との電話が入った。山名は、新型機の設計を担当する設計課第三班長だった三木少佐をともなって、和田中将のもとへ赴いた。三木は当時34歳。双発の陸上爆撃機銀河の設計主務者として、急降下爆撃、水平爆撃、雷撃(魚雷攻撃)をこなす高性能かつ流麗な機体を生み出したばかりで、その手腕が高く評価されていた。
新型機の研究、開発の仕事に多忙をきわめていた三木は、「どうせまた、すぐには実現困難な案にすぎないだろう」と考え、あまり気乗りしないまま廠長室に向かった。無人のグライダー爆弾の構想はこれまでにも何度か浮上してきたが、問題はその誘導装置である。無線操縦をはじめ、目標に照射した光線のなかを飛行させるとか、熱線や超短波に感応して自動照準で目標に命中させるなど、さまざまなアイディアが出され、なかには実験室レベルで成功した例もあったが、いずれも実用化にはほど遠いシロモノだった。
廠長室には、和田中将と向かい合って大柄な男が座っている。差し出された名刺には「海軍少尉 大田正一」とあり、右肩のところに「第一〇八一海軍航空隊」とペン書きで添えられていた。

