1944年、戦局悪化の日本軍で浮上した「人間爆弾」の構想。憤る設計者に、31歳の海軍少尉・大田正一は「私が乗る」と言い放ち、特攻兵器「桜花」は生み出された。

 多くの若者を死へ追いやり、米軍から“BAKA Bomb(馬鹿爆弾)”と蔑まれた悲劇の兵器。だが、自ら出撃を誓ったはずの発案者は、一度も操縦桿を握ることなく終戦を迎える。そして、練習機で飛び立ち「殉職」したとされたが……。

 人間爆弾・発案者である「大田正一のその後」を、ジャーナリストの神立尚紀氏の新刊『ドキュメント 軍人たちの戦後』(小学館)より一部抜粋してお届けする。(全2回の2回目/最初から読む

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1944年12月、飛行服姿の大田正一(写真:筆者提供)

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 三木は、戦後最初に書いた手記『桜花一一型試作概要』にこう記している。

〈技術者の至らざる処を尊き命をもって補って行こうと云うのだ。(中略)我が綜合国力と急速度で不利になる戦勢を考え合わせる時、最後には吾々も之で行こう、行かざるを得ない。部隊の要望するものを要望する時に間に合わさせねばと、其の火と燃ゆる熱に動かされたのであった。〉

 結局、大田の案は採用され、発案者・大田正一の頭文字をとって○大(〇の中に大)と名づけられた「人間が操縦するグライダー爆弾」――のちの桜花――の設計を、三木が担当することになった。

トラック島壊滅で変わった潮目

 大田は、実戦経験豊富な陸上攻撃機偵察員(偵察、航法、無線などを担当する)だが、兵隊上がりの「特務士官」にすぎない。「特務士官」は海軍のエリートである海軍兵学校、機関学校出身の正規将校より段違いに格下に扱われている。

 階級制度がきわめて厳しかった海軍にあって、一介のノンキャリアである特務士官、なかでも序列が最も低い少尉のアイディアが海軍を動かし、兵器を開発し、部隊を編成させることなど通常は考えられないことである。

 大田の案が採用されるには、それだけの下地があった。