「馬鹿爆弾」

 1945(昭和20)年3月21日、四国沖に現れた米機動部隊を攻撃するため、神雷部隊ははじめて、鹿児島県の鹿屋基地を発進した。一式陸攻は野中五郎少佐の率いる18機、うち15機に桜花を懸吊している。だが、当初72機が予定されていた護衛戦闘機は前日までの空襲で消耗し、じっさいに出撃できたのは30機に過ぎなかった。神雷部隊は待ち構えた米軍戦闘機グラマンF6F約50機の襲撃を受け、米機動部隊に辿り着くことなく全滅した。

 以後、桜花の出撃は延べ10回におよび、米側記録との照合で、駆逐艦1隻撃沈、3隻に再起不能になるほどの損傷を与え、3隻に損傷を与えたことが判明しているが、神雷部隊は桜花搭乗員55名をふくむ715名もの特攻戦死者を出した。地上の整備員や特攻以外の戦死、殉職者114名を合わせると、神雷部隊の戦没者は829名に達する。

 沖縄に上陸後、未使用の桜花を手に入れた米軍は、この兵器に「BAKA」あるいは「BAKA Bomb」(バカボン=馬鹿爆弾)と名づけた。

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 大田正一は、桜花搭乗員の訓練部隊である第七二二海軍航空隊で、飛行長を補佐する飛行士として、茨城県神之池基地で終戦を迎えた。

 1945(昭和20)年8月18日、大田は、基地にあった零式練習戦闘機に飛び乗り、よたよたと飛びながら鹿島灘の沖に消えた。海軍は大田をテスト飛行中の「航空殉職」と認定し、のちに戸籍も抹消された。

――だが、大田は生きていた。