さらに7月、軍令部第二部長に就任すると、8月には戦備の方針を定めるための会議で、「戦闘機による衝突撃(体当り)」の戦法を提案している。これは大田正一が「グライダー爆弾」の試案を航空本部に持ち込むよりも1年近くも前のことである。
「上層部」にとって好都合
航空機による体当り攻撃も着々とその準備が進められようとしていた。その中心となったのは源田実中佐である。1932(昭和7)年から1934(昭和9)年にかけ、日本初の編隊アクロバット飛行チーム「源田サーカス」を率い、戦闘機パイロットの草分けとして有名だった源田は、1944年当時は海軍の作戦をつかさどる軍令部第一部の部員(参謀)を務めていて、航空作戦のすべてを動かしうる立場にあった。
航空特攻への流れをさらに加速させたのが、1944年6月19日から20日にかけて日米機動部隊が激突したマリアナ沖海戦での惨敗である。サイパン島をめぐるこの戦いで、日本海軍は、敵艦隊にほとんど打撃を与えることのできないまま、虎の子の空母3隻と基地航空部隊をふくめ470機もの飛行機、3000名を超える将兵を失った。
6月25日に開催された陸海軍の元帥会議で、サイパン島奪回を断念することが正式に承認されたが、このとき、海軍の長老、皇族元帥の伏見宮博恭王が、「対米戦には特殊の兵器の使用を考慮しないといけない」と発言。暗に体当り兵器の開発を促すかのような「宮様」の一言が「お墨つき」を与えた形となって、海軍の大勢は一気に特攻へと傾く。
この時点で㊃兵器(震洋)はすでに試作艇が完成し、量産に入ろうとしていた。㊅兵器(回天)は、まもなく試作艇が完成して、航走試験を始めようとしている。陸軍でもすでに、体当り戦法が一部で検討されている。
大田正一が「グライダー爆弾(人間爆弾)」の構想を空技廠に持ち込んだ1944年7月は、まさに「特攻」が海軍の既定路線となり、そのための兵器の開発が進められている時期だった。これが半年早ければ大田の案が採用されることはなかっただろうし、半年遅ければ実戦に間に合わなかっただろう。あまりにも運命的なタイミングだった。