太平洋戦争中、国のため、家族のため、そして何よりも愛する人のために命懸けで戦った零戦搭乗員たち。しかし、敗戦後は労われることもなく、ときに過酷な運命に苦しめられた。
2016年に99歳でこの世を去った原田要さんも、妻・精さんとともに“激動の戦後”を懸命に生き抜いた一人だ。零戦搭乗員たちの証言を集めた『零戦搭乗員と私の「戦後80年」』(講談社)より一部を抜粋して紹介する。(全4回の1回目/続きを読む)
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元零戦搭乗員を待ち受けていた“過酷すぎる運命”
復員した原田さんは郷里の長野で、妻と子供2人、病弱な母をかかえて職を求めたが、公職追放にかかっているとの理由でどこへ行っても採用されず、また、状況がわからないので「戦犯」の影におびえる日々だった。その上、夜中に空戦の夢を見て、うなされることも多かった。
敗戦のショックから立ち直るには、なおも数年の歳月が必要だった。
「戦後は家内と2人で、家族8人を養うためにずいぶん苦労しました。百姓をやったり、乳牛を飼って搾乳したり、いろいろやってみたけど一つも成功しませんでした。
昭和40(1965)年、地元に詳しいからというので自治会長にさせられて、そうしたら、いろんな人が相談をもちかけてくるんです。
まず、小さな子供を預かってくれるところはないかというので、近所のおばさんで赤ちゃんを預かってくれるところを探しました。そのうち若い人が増えてくるとおばさんたちの手が足りなくなり、ちょうどその頃、小学校ができることになって私の田んぼを代替地として提供したら何がしかのお金が入ったので、昭和43(1968)年に託児所『北部愛児園』をつくりました。私は固辞したんですが、福祉の仕事に関心のあった家内が、お引き受けしたら、と言ってくれて始めました。そしたら、そこに通っていた子供たちが順に大きくなって、こんどはとうとう幼稚園をやることになったんです」
昭和47(1972)年、幼稚園は学校法人として認可され、原田さんは理事長に就任する。56歳での新たなスタートだった。



