「主人はああ見えて、戦争の話をした晩は…」

 私が最初に(じょう)()した、零戦搭乗員の証言集『零戦の世紀』(スコラ・1997年)で原田さんのことを紹介して以来、

「零戦搭乗員で幼稚園の園長になった人がいる」

 ということが広く知れ渡り、各種メディアの取材が引きも切らなくなった。

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 原田さんは人を選ばず来るものは拒まず、取材したほうは喜んで帰っていくのだが、あるとき精さんに、

「主人はああ見えて、戦争の話をした晩は夜通し、苦しそうにうなされるんですよ。見ていてとっても辛くて。年も年だし、紹介してくれというお話は全部お断りいただけると助かります......」

 と言われてハッとしたこともある。

1995年8月、50年ぶりに日本の空を飛んだ零戦 ©︎神立尚紀

 真珠湾攻撃60周年のときには一緒にハワイにも行ったし、温泉旅行にも幾度も行った。長野の原田邸に行くと必ず、手作りの料理や漬物で歓待してくれた。私もいつしか、実の祖父母宅に行くような感覚になっていた。東京で行われる「零戦の会」の総会にも、毎年、夫妻揃って参加していた。

「生まれ変わっても、家内と一緒になりたい」

 と、原田さんはかねがね言っていた。本心だと思う。

 平成28(2016)年5月3日、死去。享年99。100歳の誕生日を3ヵ月後に控えていた。家族によると、前年の戦後70年(平成27年)の年に、新聞や雑誌、テレビの取材が休む間もないほど続き、それに律儀に応じていたために()(ろう)(こん)(ぱい)して体調を崩していたのだという。

それでも“あの戦争”を語り続けた理由

「戦争で死ぬような目に何度も()いながら、この歳まで生きてきて、人の命なんてわからないものだとつくづく思います。寿命は神様から与えられたもので、自分ではどうにもならないものなんですね。

 年寄りの目からみると、あの戦争で、多くの犠牲の代償として得た平和が、いまは粗末にされているような気がしてなりません。歴史を正しく認識して、平和のありがたさを理解しないと、また戦争を起こしてしまう。ほんとうは思い出すのも嫌だけど、命ある限り、自分たちが体験したことを次の世代に語り伝えることが、われわれの世代に課せられた使命だと思っています。

 とはいえ、幼稚園で、小さな子供たちにそのことを教えるのは大変です。そこで私は、まず物は大事にしなさい、どんな物でもその物の身になって、けっして無駄には使わない、それが自分の命を守ることにつながるんだよ、という話から始めるようにしてきたんです」

零戦搭乗員だった原田要さん

 ——原田さんの左腕には、ガダルカナル島上空で負ったすさまじい(じゅう)(そう)が残っていた。そんな実体験に裏打ちされた言葉は、限りなく重かった。その思いは、子供たちにもきっと伝わっていたに違いない。

次の記事に続く 「どうせわかりっこない。カエルでも食わせてやれ」中国軍将官を日本語で罵倒→予想外の返答に絶句…元零戦パイロットがふり返る“衝撃の瞬間”