太平洋戦争中、国のため、家族のため、そして何よりも愛する人のために命懸けで戦った零戦搭乗員たち。それでも敵艦への“特攻隊指名”は容赦なく降りかかった。
2013年、94歳でその生涯を閉じた角田和男さん。幾多の死線をくぐり抜けた歴戦の搭乗員が、ある日突きつけられた“鬼のような命令”とは——。零戦搭乗員たちの証言を集めた『零戦搭乗員と私の「戦後80年」』(講談社)より一部を抜粋して紹介する。(全4回の4回目/最初から読む)
「反撃はいっさいしてはならぬ」
10月30日。春田大尉の発案で、タクロバンの敵飛行場の黎明攻撃をしてから指揮機能のあるセブ島に向かうこととし、まだ暗いうちに敵の地上陣地に銃撃を加えてからセブ基地に着陸した。
基地で朝食を出してもらい、一服していると、午前10時頃、基地指揮官の二〇一空飛行長・中島正少佐に呼ばれ、突然の出撃命令を受ける。
「ただいま索敵機より情報が入り、レイテ沖に敵機動部隊を発見した。ただちに特攻隊を出さなければならないが、搭乗員に若い者が多く、航法に自信がもてないので春田隊の直掩を命ずる。任務を果たした場合は帰投してよろしい。だが、戦死した場合は特攻隊員と同様の待遇をする」
突然の特攻隊指名に、角田さんは驚き、緊張した。中島少佐は、声を一段高くして言葉を継いだ。
「直掩機は敵機の攻撃を受けても反撃はいっさいしてはならぬ。爆装隊の盾となって弾丸を受け、爆装隊に対する敵機の攻撃を阻止すること。戦果を確認したならば帰投してよろしい。制空隊も、2個小隊の突入を確認したなら、離脱帰投してよろしい。もし、離脱困難の場合は最後まで戦闘を続行すること」
角田さんは、顔がこわばるのを感じた。これまで、ソロモンや硫黄島で無数の修羅場をくぐり抜けてきた角田さんでさえ、こんな、鬼神のように厳しい命令を受けたのは初めてのことだった。
中島少佐はさらに、突入が成功すれば新しく隊名を命名する、と付け加えた。この特攻隊は、のちに葉櫻隊と呼ばれることになる。角田さんの回想――。
なんの味もしなかった“出発前の稲荷寿司”
「昼食に配られた稲荷寿司の缶詰を、出発前に食べてみたら、そのまずいこと。貴重品の缶詰で、ほんとうはうまいはずなんです。でも、ぼそぼそで味も何も感じられなかった。そっと若い隊員たちを見わたすと、サイダーだけ飲んで、『おい、俺はとても喉を通らないぞ』といたずらっぽく言って、見送りの整備員に缶詰をわたす者もいましたが、半数の者は、じつにうまそうに、まるで遠足に行った小学生のように嬉々として立ち食いしている。私は、特務少尉ともあろう者が、この期におよんで弁当を食い残したとあっては恥だと思い、傍らにころがっていた丸太に腰をかけて、サイダーで流し込んで形だけは悠々と平らげました。まったく、砂を噛む思いとはこのことです。あの若者たちには遠く及ばない、と思いました」
出撃準備を完了して、発進。針路100度(東方やや南寄り)、高度3000メートル。この日は好天で、視界はきわめて良好だった。角田さんは、爆装機の右上方100メートルの位置につく。
レイテ島を過ぎてまもなく、春田大尉機がエンジン故障で引き返す。ただ1機で3機を護ることになった角田さんは、敵戦闘機に遭えば死ぬことには変わりはない、と覚悟を決めた。




