太平洋戦争中、国のため、家族のため、そして何よりも愛する人のために命懸けで戦った零戦搭乗員たち。しかし、敗戦後は労われることもなく、ときに過酷な運命に苦しめられた。

 2000年に88歳で亡くなった進藤三郎さん。戦後の進藤さんを絶望させたのは、日本社会の“手のひら返し”とも呼べる変節ぶりだった。零戦搭乗員たちの証言を集めた『零戦搭乗員と私の「戦後80年」』(講談社)より一部を抜粋して紹介する。(全4回の3回目/続きを読む

戦後の進藤三郎さん ©︎神立尚紀

焼け野原の広島で父と再会

 広島の街は、一面の焼け野原になっていた。進藤さんの生家は、爆心地から南東へ約2.8キロの距離にある。帰ってみると、爆風で壁が落ち、畳や建具も吹っ飛び、柱も「く」の字に折れ曲がったような状態だったが、蓮田のなかの一軒家であったため類焼を免れ、父・登三郎さんと母・タメさんが2人で暮らしていた。

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 厳格だった父が、目に涙を浮かべて、

「三郎、ご苦労さんじゃったなあ」

 と迎えてくれたとき、初めて負けた実感が、悔しさとともに体中から湧いてきた。父子は、抱き合って長いこと泣いた。

戦前の進藤三郎さん

 家族の安否は、妻・和子さんと、20年5月25日に生まれたばかりの長男・忠彦さんは、和子さんの母方の里である広島県北東部の(しょう)(ばら)町に疎開していて無事、しかし、白島にあった和子さんの実家が、経営する病院ごと原爆で焼け落ち、和子さんの姉・孝子さんが亡くなっていたことを知った。進藤さんの次兄・次郎さんは陸軍に召集され、陸軍上等兵として中国大陸で戦死。2人の弟はそれぞれ独立し、2人の妹もそれぞれ嫁いで広島を離れている。

 それからしばらくは放心状態が続き、毎日、原爆の爆風で屋根瓦が飛び室内がめちゃくちゃになった家の片づけをしたり、自宅から3キロほど南の()(じな)海岸で釣りをしたりして過ごした。

「あいつは戦犯じゃ。戦犯が通りよる」

 秋も深まったある日、いつものように生家近くの焼け跡を歩いていると、遊んでいた5、6人の小学校高学年とおぼしき子供たちが進藤さんの姿を認めて、

「見てみい、あいつは戦犯じゃ。戦犯が通りよる」

 と石を投げつけてきた。新聞でしばしば写真入りで報道されていたので、地元の子どもたちは進藤さんの顔を知っていたのだ。

「こら!」と怒鳴ると逃げ散っていったが、やるせない思いが残った。

 広島に最初に進駐してきたのは、オーストラリア軍を中心に編成された英連邦軍である。進藤さんは、広島駅前で、進駐してきた豪州兵にぶら下がるように腕を組み、歩いていく日本人女性を見たとき、つくづく世の中がいやになった。

 この変わり身の早さ。

「それ以来、日本人というものがあんまり信じられなくなったんです」