太平洋戦争中、国のため、家族のため、そして何よりも愛する人のために命懸けで戦った零戦搭乗員たち。彼らが迎えた“戦後”はいかなるものだったのか。
2001年、91歳でその生涯を閉じた鈴木實さん。終戦の直後、彼が台湾で体験した“ある出来事”とは——。零戦搭乗員たちの証言を集めた『零戦搭乗員と私の「戦後80年」』(講談社)より一部を抜粋して紹介する。(全4回の2回目/続きを読む)
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8月15日の特攻出撃が中止に
8月13日。台湾の高雄警備府の命令で、翌14日をもって、台湾の各基地と石垣島、宮古島の日本海軍航空基地に残存する全兵力で、沖縄沖の敵艦船に体当り攻撃をかける「魁作戦」が発動された。「一億総特攻」の魁となって、全機特攻出撃せよ、というのである。
だが、零戦に燃料、弾薬を満載して出撃準備を整えていたにもかかわらず、14日は沖縄方面の天候不良のため、作戦が延期された。15日の朝、エンジンの試運転を行い、搭乗員が機上で出撃命令を待ち構えているところに、台湾・新竹にある第二十九航空戦隊司令部から、「出撃待テ」の指令が届く。午後になって結局、この日の出撃も中止された。
「トラックに乗って宿舎に帰る途中の集落で、顔見知りの島民に呼び止められました。ラジオで、陛下による玉音放送を聴いた、どうやら戦争が終わるらしい、という。『なにを馬鹿なことを』と思いました。現にわれわれは今日、特攻の命令を受けて待機していた。『アメリカもうまい宣伝しやがるな』ぐらいにしか思わなかったですね」
16日になってようやく、司令部より、終戦の通達が鈴木さんのもとへ届いた。
9月に入ると、中華民国軍が、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の委託に基づき、日本軍の武装解除のため台湾に進駐してきた。
中国軍の占領方針は、蒋介石の「怨みに報いるに徳を以ってせん(以徳報怨・老子)」の言葉どおり、旧怨を感じさせない紳士的かつ穏やかなものであった。
中国空軍の司令官に呼び止められ…
宿舎が収容所と名を変えただけで、中国軍による監視もない。日本軍将兵は最後まで帯刀を許され、階級章もつけたまま、互いを呼び合うときも官職名のままだった。これまでと同じように、自由に外出することもできた。
鈴木さんは9月5日付で中佐に進級していたが、中国軍からも中佐としての待遇を受け、中国空軍司令官・張柏壽中将の隣室に私室を与えられ、運転手つきの専用車をあてがわれた。その車を使って、毎晩のように台中の日本料亭に入り浸っても、何の咎めもなかった。
あるとき、張中将が、出かけようとする鈴木さんを、通訳を介して呼び止めた。
「貴官は夕刻になると宿舎から消えるが、いったいどこへ行っているのか」




