「自決することを考えました」進藤さんを苦しめた絶望感
つい昨日まで、積極的に軍人をもてはやし、戦争の後押しをしてきた新聞やラジオが、掌を返して、あたかも前々から戦争に反対であったかのような報道をしている。周囲の人間を見ても、戦争中、威勢のいいことを言っていたものほど、その変節ぶりが著しい。
批判する相手(=陸海軍)が消滅して、身に危険のおよぶ心配がなくなってからの軍部、戦争批判の大合唱は、進藤さんには、時流におもねる卑怯な自己保身の術としか思えなかった。「卑怯者」は、いわゆる「進歩的文化人」や「戦後民主主義者」と称する者のなかに多くいて、敗戦にうちひしがれた世相に巧みに乗って世論をリードしていた。
「私は、自分はこれからの時代に生きてゆくべき人間ではないような気がしました。『生き残った』のではなく、『死に損なってしまった』という意識の方が強かった。自決することを考えましたが、あいにく姫路基地で武装解除されたので拳銃を持っていない。生命を絶つ方法をあれこれ考えているうち、終戦直前、生まれたばかりの長男に会いに庄原へ行ったとき、差し出した人差指を小さな手で無心に握ってきた感触が甦り、死ねなくなってしまった。われながら情けない気がしました」
「あれが犬死にだというのか…」
戦後の風潮は、戦時中の日本のやってきたことをことごとく「悪」と断じるものであった。戦没者のことを犬死によばわりすることさえ、「進歩的」と称するインテリ層の間では流行していた。そんな言説を見聞きすると、「何を言いやがる」と進藤さんは悔しかった。
直属の部下だけで、160名もの戦死者を出している。なかでも、昭和18(1943)年、ガダルカナル島をめぐる航空戦では、部下たちの最期を幾度も目の当たりにした。ソロモンの海に飛沫を上げて突っ込んだ艦上爆撃機や、空中で火の玉となり爆発した零戦の姿を思い出すたび、あれが犬死にだというのか、と、やりきれない思いに涙が溢れた。



