原田さんが語っていた“戦後教育への違和感”

「これも運命だと思うんですよ。もちろんいまは、幼児教育に生きがいを感じています。子供というのはほんとうに正直で、毎日が楽しくてしようがありません。

 しかし、近頃は世の中が狂ってますね。私は、それはやはり教育が悪いんだと思う。幼稚園なんかも、教育じゃなくて子供の奪い合いみたいになっています。宣伝合戦やって、立派な園舎を建てて、立派な遊具を買って、そんななかでおだて上げた教育をしてるでしょう。結局ね、感謝する気持ちがないわけですよ。いつも不平不満が先に立って、ありがとうという気持ちがないんじゃないかと。

 それと、私もそうでしたが、親が自分の果たせなかった夢を子供に託そうとするでしょう。それが子供にとっては重荷になっちゃう。塾だ、習い事だ、といろんなことを小さいときからさせるけど、それじゃ、子供が子供らしく伸びないもの。盆栽みたいになっちゃって、かわいそうですよ」

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幼稚園の園長だった原田要さん ©︎神立尚紀

 原田さんはその後も園長として子供たちの敬愛を集め、平成22(2010)年、94歳の年に引退するまで、精さんとともに幼児教育に情熱を注いだ。

 引退と同じ年、平成22年11月。70年近く連れ添ってきた精さんが、87歳で亡くなった。

 戦中は明日をも知れぬ戦闘機乗りの妻として、戦後は一転、周囲から「戦犯」呼ばわりをされ、失業して職を転々とする夫を支え、激動の昭和を生きてきた精さんは、夫婦で小さな幼稚園を設立してからはずっと、子供たちをやさしく見守ってきた。

 私の知っている精さんは、いつも明るく穏やかで、(はた)()には幸福そのものに見えたけれど、幼稚園児の保護者、というよりも日本人の気質の変化に、ずいぶん戸惑いも感じていたようだ。

 精さんは、毎年、冬になると、次の春に入園してくる子供たちのために全員の分の草鞋(わらじ)を、心をこめて編んでいたが、

「この頃の親御さんのなかには、こんなものいらないから保育料を安くしろって言う人もいるんですよ。お金じゃなく気持ちでやってきたことなのに、もう、嫌になっちゃって」

 と寂しそうにこぼしていたのを思い出す。

「こんど生まれ変わったら、もっと楽な人と一緒になりたいわ」

 などと言いながら、原田さんのことを思う気持ちは、いつもひしひしと伝わってきた。