苦境の日本軍に浮上した「捨て身の戦法」

 1941(昭和16)年、太平洋戦争がはじまり、次第に戦局が日本側に不利になってくると、1943(昭和18)年6月頃から、人間が操縦する兵器で敵艦や敵機に体当りする捨て身の戦法が海軍の一部で本格的に議論に上るようになっていた。

 航空機による体当り攻撃、人間魚雷……さまざまなアイディアが航空本部や軍令部などに上申され、当初はことごとく却下されていたのが、1944年2月17、18日、日本海軍の太平洋の拠点・トラック島が米軍艦上機の大空襲を受け、壊滅したことで潮目が変わる。

 2月26日、先の「人間魚雷」の着想が見直され、広島県の呉海軍工廠魚雷実験部で「㊅金物」の秘匿名で極秘裏に試作が始められる。これは魚雷に操縦装置をつけ、人間の操縦で敵艦に体当りするものだった。

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 さらに4月、海軍の軍備計画をつかさどる軍令部第二部長・黒島亀人少将は、作戦を統括する第一部長・中澤佑少将に、「体当り戦闘機」「装甲爆破艇」をはじめとする新兵器を開発することを提案し、中澤もそれを了承、その案をもとに軍令部は、9種類の特殊兵器の緊急実験を行うよう海軍省に要望した。海軍省の命を受けた艦政本部はこれらの兵器に㊀から㊈までの秘匿名称をつけ、実験を急いだ。

 これらのうち、黒島少将自らが考案した㊃兵器(爆薬を装備し敵艦に体当りするモーターボート)はのちに「震洋」として、㊅兵器(人間魚雷)は「回天」として実戦に投入され、それぞれ多くの若者が戦死している。

 黒島は奇抜なアイディアマンとして知られ、かつて連合艦隊司令長官・山本五十六大将の懐刀として真珠湾攻撃の作戦をまとめた先任参謀だった。1943年4月18日、山本が戦死し、黒島は同年6月軍令部に転じたが、この頃から、「モーターボートに爆薬を装備して敵艦に体当りさせる」という自らのアイディアを軍令部の幕僚たちに説くようになった。