「私は第三三二海軍航空隊の夜戦(夜間戦闘機)搭乗員の中尉として、伊丹基地(現・大阪国際空港)で終戦を迎えました。玉音放送は雑音がひどく聴き取れませんでしたが、飛行長の倉兼義男少佐から、戦争が終わったことを告げられた。そのときは現実感がなくなんとも思わなかったですね。ところがその晩、土佐湾に敵艦隊が入ったとの情報に、それを攻撃せよとの倉兼少佐の命令で出撃したんです。停戦命令はまだ届いていませんから、敵が来たら攻撃するという判断だったんでしょう」と、水木泰は言う。
「8月15日、伊丹基地を発進したのは夜間戦闘機月光4機と零夜戦6機、時間は22時頃だったと思います。私は零夜戦に搭乗しました。零戦の夜戦型です。ただ、『夜戦』には斜銃(対爆撃機戦闘用に軸線から傾けて取り付けられる機銃)がつくのが通例ですが、三三二空の零夜戦には斜銃はついてなかった。伊丹基地には二百五十キロ爆弾のストックがなかったので、六十キロ爆弾を両翼の下に搭載して。雨がしょぼしょぼ降る晩でしたよ。
高知上空に着いてみると、灯火管制が解除されたのか、町の灯りがついている。土佐湾に敵艦隊はおらず、漁船の漁火を敵艦と誤認したことがわかりました。ホッとしましたね」
飛行科にまわされるのは二階級の損
水木泰は1920(大正9)年、父の勤務先であった中華民国の上海で生まれた。小学校に上がる頃、東京に戻り、東京府立九中を経て慶應義塾大学に進む。慶應では経済学を専攻し、レスリング部に所属してスポーツにも励んだ。1940(昭和15)年、幻となった東京オリンピックがもし開催されていたら、日本代表に選ばれると期待されるほどの強豪選手だったという。
だが、戦争は激しさを増し、卒業が近づくにつれ軍隊に入ることを直視せざるを得なくなった。
「徴兵検査は甲種合格、軍隊は義務だから逃れようがない。それで私は、陸軍で土の上を這いまわるのはいやだと、海軍短期現役主計科士官(短現)十期の試験を受けたんです。
主計科短現なら、海軍に入ったその日から主計中尉になれるという不純な動機もありました。それで合格通知が来たんですが、それとともに、1943(昭和18)年9月13日、海軍飛行専修予備学生十三期として三重海軍航空隊に参集せよとの通知が届いた。スポーツをやっていて適性があると判断されたんでしょう。だから私は、主計科の試験を受けたのに飛行機に回されたんです。
よく、飛行専修予備学生十三期は志願、十四期は徴兵で海軍に入ったと言われますが、私のようにどちらでもないケースもかなりあるようです。主計科とちがって飛行科の予備学生は『下士官の上、准士官の下』の位置づけですから、飛行機にまわされて二階級損をしたことになります」


