元・桜花パイロットの湯野川大尉に突如「地下潜行」の密命が下る。手渡されたのは現在価値にして6000万円という巨額の資金と偽名、そして“自決扱い”による存在抹消だった。目的も指示も知らされぬまま身を潜めた男に、果たして何が起きようとしていたのか。
ジャーナリストの神立尚紀氏の新刊『ドキュメント 軍人たちの戦後』(小学館)より一部抜粋してお届けする。(全2回の2回目/最初から読む)
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淡々と順番を待つ
1945(昭和20)年3月18日、米艦隊発見の報告を受け、大分県の宇佐基地に展開していた湯野川率いる桜花隊に出撃命令がくだる。母機の陸攻隊(攻撃第七〇八飛行隊)指揮官は足立次郎少佐。だが、出発準備をほぼ完了、襲撃方法の打ち合わせを終えて、別杯の用意が整えられようとしていたとき、基地は敵艦上機の奇襲攻撃を受けた。執拗で激しい銃爆撃に、飛行場に並んだ一式陸攻18機の大半が地上で焼失した。
「覚悟を決めたところで、悔しかったですね……。このときはコテンパンにやられました。ほんとうに、悪夢のような光景でした」と、湯野川は回想する。
足立・湯野川隊が大打撃を受けたので、長崎県の大村基地に退避していた野中五郎少佐の指揮する陸攻隊(攻撃第七一一飛行隊)が急遽、鹿児島県の鹿屋基地に進出し、三橋謙太郎大尉を隊長とする桜花隊を抱いて3月21日、敵機動部隊を求めて出撃する。
しかし、桜花隊を護衛するべき零戦隊も18日の戦闘で戦力を消耗していて、十分な護衛戦闘機を持たないまま出撃した陸攻18機(うち桜花懸吊15機)は、待ち構えた米戦闘機に全機が撃墜され、桜花による初の攻撃は失敗に終わった。
この日の戦死者は、桜花隊が三橋大尉以下15名、陸攻隊は野中少佐以下135名、零戦隊も漆山睦夫大尉以下10名、計160名に達した。



