特攻志願の伝達で唯一「否」と答え、過酷な戦中を生き残った大川原要。戦後、様々な職を経てたどり着いたのは、当時まだ無名だった「牛たん」だった。上官の教え、ライバルとの絆、そして仙台名物へと育て上げた男の商才とは?
ジャーナリストの神立尚紀氏の新刊『ドキュメント 軍人たちの戦後』(小学館)より一部抜粋してお届けする。(全2回の2回目/最初から読む)
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大西瀧治郎から日の丸に揮毫
1943年12月9日、大川原は、いわゆる「学徒出陣」で海軍に召集され、横須賀第二海兵団に入団する。2ヵ月前の10月に海軍に入った飛行専修予備学生十三期、兵科予備学生三期が最初から「下士官の上、准士官の下」の予備学生としての待遇を受け、士官服を着たのに対し、学徒出陣組は徴兵だから、最下級の二等水兵で海兵団に入団し、予備学生試験に合格した者だけが飛行専修予備学生十四期、兵科予備学生四期に採用された。同時に海軍に召集された高専在学中の者は「予備生徒」となり、予備学生よりも一階級低い扱いを受ける。
「入団する前、母につれられて親戚、知人に挨拶回りをしましたが、そのなかに下落合の大西瀧治郎中将宅がありました。大西中将夫人の淑惠さんが母の友人だったんです。たまたま大西中将が在宅されていて、日の丸の旗に『大川原君の壮途を祝す 海軍中将 大西瀧治郎』と揮毫してくれました」
海兵団でしごかれること3ヵ月。飛行専修予備学生の試験に合格した大川原は、1944(昭和19)年2月、予備学生として茨城県の土浦海軍航空隊に入隊。ここでやっと士官服を着る。4ヵ月間、海軍士官になるための猛烈な詰め込み教育を受け、6月に谷田部海軍航空隊に転勤、九三式中間練習機での操縦訓練が始まった。
そして大川原は戦闘機専修と決まり、同期生50名とともに同じ茨城県の神之池海軍航空隊で零戦、零練戦(訓練用の複座型零戦)の操縦訓練を受けた。



