特攻隊に出たはずの内藤祐次と戦後、再会したときには幽霊が出たかと驚いたという。のちに内藤が家業を拡大、世界的な製薬会社に成長しつつあったエーザイに大川原の長男・智司が就職するなど、同期生の絆は終生続くことになる。

 8月16日には、大川原が海兵団入団前、日の丸に壮行の辞を書いてくれた大西瀧治郎中将が自刃した。特攻で死なせた部下たちを思い、なるべく長く苦しむようにと介錯を断っての最期だった。

行く先々で業績を伸ばす

 9月5日付で海軍中尉に進級した大川原は両親が疎開していた福島県に復員し、家具店で働いたのち、仙台の丸光デパートに就職、外商の得意先係の職を得る。トラックに商品を満載して交通不便な町から村へと出張販売を始めたところ、これが大当たりした。

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「当時流行していた『北上夜曲』を口ずさみながら、活気にあふれた日々でした」と、大川原は回想する。木造だったデパートも鉄筋コンクリートの建物になった。だが、百貨店協会から「百貨店としての矜持を保て」との横やりが入り、売り上げを伸ばしていた出張販売は3年で中止になった。

 1955(昭和30)年、丸光が石巻に店を出すと石巻店の外商を兼ねた衣料課長となり、1959(昭和34)年には丸光特設課主任として、ふたたび仙台勤務となる。そして翌年、開店した系列のスーパー「トーコー」に出向、若い女子社員を東京に派遣して、自分たちが欲しいと思うものを仕入れさせるという奇策が成功して業績を伸ばす。

 その後、大川原は婦人服卸売の東洋商事、仙台駅前にオープンした月賦販売の「緑屋」と転職し、行く先々で業績を伸ばし、紆余曲折を経て中国料理店の支配人となった。1973(昭和48)年のことである。

 この頃、大川原は、古くからの馴染み客の勧めで、ある店で牛たん焼きを食べ、その素朴な美味しさに感動したこと、なにより店の繁盛をまのあたりにしたことから、自分の牛たん店を持つことを決意する。