「否」と書いたのはひとりだけ
2002(平成14)年、「谷田部空の集い」が航空隊跡で行われ、千葉元中尉や大川原をはじめ、大川原の同期生で戦後大手製薬会社エーザイの社長・会長を務めた内藤祐次、岩波書店顧問を務めた同じく同期生の鈴木球一、そして飛行隊長だった日高盛康元少佐(戦後航空自衛隊、富士重工テストパイロット)、谷田部空の特攻隊指揮官だった香川宏三元中尉(戦後日本通運。70年大阪万博建設資材運搬や、72年沖縄返還時の日本円運送などを手がける)など30余人が集った。
ここで私が千葉元中尉から聞いたところでは、特攻志願が募られたさい、「否」と書いたのは大川原だけだったという。
大川原は1945(昭和20)年5月5日、両親のすすめで順子と結婚。伊勢山皇大神宮で式を挙げた。それからは週に一度の上陸(外出)日に横浜の実家で待つ妻のもとへ帰るが、ちょうど横浜にいた5月29日、横浜は大空襲を受けた。横浜市街は焦土と化し、妻の実家も焼け落ちたが、軍人である大川原は谷田部空に戻らないといけない。
たまたま通りかかった陸軍のトラックに便乗し、猛火を抜けて海軍専用だった新橋第一ホテルまで走る。そこから鉄道で谷田部まで帰ったという。やがて、焼け出された妻も谷田部に引っ越し、航空隊近くの大きな農家に部屋を借りた。
「谷田部空では特攻隊員の発表が続き、同期生の内藤祐次君も鹿児島県の鹿屋基地に行ってしまった。『否』とは書いたものの、それがどれほど効果があるものかわからない。いつ自分にも指名がかかるかと身構えていましたが、やがて沖縄が陥ち、本土決戦を待つばかりになって、谷田部空で生き残った私たち20数名の搭乗員は本土決戦要員になった。決戦待機のためもう家には帰れないからと8月14日、妻に別れを告げて隊に戻ると、15日正午から天皇陛下の重大放送があるという……」
天皇が戦争終結を国民に伝えた「玉音放送」である。こうして大川原は終戦を迎えた。


