「もしも、あのじゃんけんに負けていたら――」。81年前、原爆に遭い、地獄の広島を歩いた友人。5日後、その焼け野原に立った佐藤圭一さん。運命を分けた偶然。98歳の今、亡き友の手記と自身の記憶を重ね、原爆に翻弄された人生を語る。【全3回の3回目/第1回、第2回も公開中】
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「一気に貧乏になりました」
広島高等師範学校に通っていた佐藤圭一さん(98歳)は、原爆投下で校舎も下宿も失う。学校が再開されたのは半年後の1946(昭和21)年2月。戦後の混乱の中で佐藤さんの運命は思いもよらぬ方へ転がってゆく。
授業は乃美尾村(現在の東広島市)にあった海軍の衛生学校の建物で始まった。ところが、佐藤さんの父親と祖母が相次いで亡くなった。戦争が終わり、江戸時代に創業した商店を復興させようとしていた矢先。「一気に貧乏になりました」と佐藤さんは語る。
乃美尾の校舍はなぜか冬休みに火災になり、授業は1947(昭和22)年4月から広島市内の旧陸軍被服支廠に移された。爆風で変形した鉄扉が残るなど、今なお原爆の凄まじさを伝える赤レンガの建物だ(国の重要文化財)。
「戦後は泥棒が多く、夜は警備員をしていた」
戦争体験も影響したのだろうか、佐藤さんの進路は変化していった。生物科で入学したが、社会科に転じた。さらに哲学を勉強するため4年の卒業を待たず、1948(昭和23)年4月に官立の広島文理科大学(現在の広島大学)へ入学した。広島高等師範と同じ敷地にあり、学長も同窓会も一緒で姉妹校のような存在だった。
佐藤さんは学資を稼ごうと、アルバイト漬けになる。




