「もしも、あのじゃんけんに負けていたら――」。81年前、原爆に遭い、地獄の広島を歩いた友人。5日後、その焼け野原に立った佐藤圭一さん。運命を分けた偶然。98歳の今、亡き友の手記と自身の記憶を重ね、原爆に翻弄された人生を語る。【全3回の1回目/第2回、第3回も公開中】

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「助けてくれ…」校舎がすべて潰れていた

 1945(昭和20)年8月6日に米軍が広島へ投下した原子爆弾。放射線の急性障害などで同年末までに亡くなった人も含めると犠牲者は約14万人と推計されている。その被爆体験の語り部活動をしている98歳の男性が岡山県倉敷市にいる。17歳の時、広島市で学生生活をしていた佐藤圭一さんだ。あれから81年が経過した今もありありと思い出す惨状。「話すと涙が出てくる」と目を潤ませる。

原爆投下後、広島上空に立ち上るきのこ雲。1945年8月6日、愛媛県松山市沖合上空から撮影 原写真:U.S. Army / National Archives カラー化:文春オンライン編集部

「急に明るく光った直後、激しい音とともに、一瞬にして建物が倒れました。失神したようです。どれくらい時間が経ったでしょうか、『助けてくれ』という声で気づきました。原爆が投下された午前8時15分、ちょうど学校の事務所に立ち寄っていました。目覚めると事務所の下敷きになっていて、声の主は職員でした。暗がりの中、何がどうなっているのか分かりません。足を挟まれて身動きもできませんでした。何とか足を引き抜いて明かりが見えた方にはい出ると、辺りは薄暗くなっていて、木造の校舍は一つ残らず潰れていました。後で分かるのですが、薄暗かったのはキノコ雲のせいでした」

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98歳、被爆体験の語り部として活動する佐藤圭一さん(自宅で) ©Taro Hagami

 佐藤さんは当時、市街地にあった広島高等師範学校(現在の広島大学教育学部)の1年生だった。戦前は師範学校で教員を養成していて、中でも高度な内容を学ぶ高等師範は東京と広島の2カ所にあった(※終戦時は金沢、岡崎にもあった)。同じ岡山出身の同級生Mさんと2人で下宿していたのだが、原爆投下時はちょうど1週間交代で夏休みを取っていた。佐藤さんは先に休むA班、帰省していた。Mさんは後半に休むB班、校庭でサツマイモなどを栽培する作業をしていた。前出の体験はMさんのものである。