下宿では交代で食事を作るなど兄弟のようにして暮らしていた2人。戦後は共に岡山で教員になるが、Mさんが亡くなった後、半ばメモのような手記を残していることが分かった。佐藤さんはこれを解読したうえ、自身の体験も含めて再構成し、94歳で2人分の証言を始めた。
「顔が血でベッタリ」「医者も看護師も血を流して…」
まずは佐藤さんの口を通して、Mさんの行動を追いかけてみよう。
潰れた学校事務所からはい出したMさんは顔がベッタリ濡れているのに気づいた。撫でると頭から血が流れ出ていた。
「腹巻を裂いて包帯にしました。倒壊した化学教室の方に火の手が上がり、こちらに迫って来ます。追い掛けられるようにして、道路へ逃げました」。そこでMさんはさらに驚いた。「家が全て倒れていて、火も出ていたのです」。
高等師範の正門前に広島電鉄が走る電車通りがある。その向かいに広島赤十字病院が建っていた。ここに駆け込んだが、「医者も看護師も血を流していて、手当てどころではありませんでした」。
爆心は高等師範から北へ約1400mの地点だ。Mさんは南へ避難する人々と一緒に歩いた。挟まれた足を抜く時に脱げたのか、片方は裸足だった。痛めた脚を引きずりながら、約1km先の御幸橋に着いた。「橋のたもとには、火傷をして、着ている物がボロボロになった人が大勢座っていました。首がだらんと垂れた赤ん坊を抱いている女性もいました」。
Mさんは橋を渡らずに道路を折れ、埋立地に建設されていた陸軍の吉島飛行場へ向かう。裸足の片足が痛くなり、道端に転がっていた下駄をはいた。
「死んだ魚のように、死体がぎっしり…」
人の流れに任せて歩くだけだった。「着衣が焼けて半裸になり、髪がバラバラになって、男女の区別もつかない人がたくさんいました。両手を前に差し出して歩いている人もいます。火傷でむけた皮膚が指先から垂れ下がっていました。防火水槽には水を飲もうとする人がよじ登るようにして群がっていました。死んでいるのか、動かない人もいました」。
広島には川が多い。御幸橋の下を流れるのは京橋川だが、吉島飛行場へは元安川を渡る。「下を見ると、人が浮いていました。死んだ魚のように、水面にぎっしり流れていました。その時、自分に何の感情もないのに気づきました。もう歩くだけで精一杯だったのです」。周囲では、歩いているうちに、ばたり、ばたりと人が倒れた。
3kmほどの道をたどる飛行場には、正午をとっくに過ぎて到着した。
「救護所らしいテントがありました。『水を下さい』と訴え、ごくりと飲んだ時のうまかったこと。その場にごろりと転げたことは記憶していますが、後は覚えていません」。気を失ったのだ。
Mさんは現在の岡山市にある実家を目指したようだ。しかし、米軍は原爆投下から2日後の8月8日深夜、畳みかけるようにして広島県第2の都市の福山市を空襲した。556tもの焼夷弾を投下し、市街地の8割を焼き払った。犠牲者は355人を数える。
広島-岡山を結ぶ山陽本線も一時不通になったが、Mさんはそれでも翌9日に実家へたどり着いた。被爆から3日が経っていた。「母親が『帰った。生きていた』とMを抱えて大泣きに泣いた、というところで手記は終わっています」と佐藤さんは語る。Mさんは体が回復するまでに1カ月以上かかったという。
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