日本軍約4600人がほぼ全滅した1943年11月「タラワ島の戦い」。玉砕の島で奇跡的に生き延びた一人の日本兵は、飢えと渇き、そして捕虜になるまでの地獄の日々を証言していた。(初出:特集文藝春秋 1956年4月)【本編へ続く】
※本文中ではアメリカに残された貴重な戦時写真をAIでカラー化。83年前の激戦と日本兵の姿を“色”でたどります。
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〈11月21日、米軍がタラワ島に上陸。戦車兵だった筆者は仲間を次々と失い、最後の突撃を迎える。壕内を爆弾と火焔放射器で襲われたが、戦友の遺体の下で奇跡的に一命を取り留めた。〉
戦友の遺体の下に隠れ、爆弾と火焔放射器の地獄をくぐり抜けた私が目にしたのは、夜の静寂に包まれた死の島だった。命令する上官もなく、手には銃一つない。「励ましあう戦友もなく、敵占領のこの島にどうして生きていったらいいのだろうか」──そう自問しながらも、命は尊かった。生きられるだけ生きてみようと、私は米兵の目をかすめて食糧を求め、生き残りの戦友の姿を探した。
「空腹でザリガニを食べ…」
昼間は身を潜め、夜になると海辺をさまよった。浅瀬でとれる小魚、小えび、ザリガニが主食だった。落ちている椰子の実があれば、御馳走だった。やがて生き残りの戦友が一人、また一人と集まり、7人になった。しかしこの島は、一尺掘れば塩水が出るほど飲料水に乏しく、「飢えよりも、のどのかわきが耐えられなかった」。
「飲めばまたあとで苦しむ事も知っていながら、海水を飲まずにはいられなかった」
そんな日々が3週間ほど続いた。7人は死を覚悟し、一緒に首を吊ろうとしたこともあった。だが丈夫な綱などあるはずもなく、死ぬにも刃物一つ、ピストル一つない有様だった。焼けつくような渇きに耐えきれず、ふらふらと海辺へ出たところを巡視中の米兵に発見された。
捕まった私たちは駆逐艦に連行され、取り調べよりも先に手厚い救護を受け、久しぶりに人間なみの食事を与えられた。衰弱した体に注射を打たれ、栄養たっぷりの食事が三度供された。乾パンと鰹節に頼る日本軍と、これほどの差があったのか──私は今更ながら恐ろしかった。
<その後、日本へ帰還すると、“自分の墓”との対面が待っていた。その様子は本編で詳しく語られている。>



