「もしも、あのじゃんけんに負けていたら――」。81年前、原爆に遭い、地獄の広島を歩いた友人。5日後、その焼け野原に立った佐藤圭一さん。運命を分けた偶然。98歳の今、亡き友の手記と自身の記憶を重ね、原爆に翻弄された人生を語る。【全3回の2回目/第1回、第3回も公開中】
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広島高等師範学校に在学中、夏休みで岡山に帰省していた佐藤圭一さん(98歳)。原爆投下の5日後に広島市へ向かうと、街は変わり果てていた。「もしジャンケンに負けて、学校に残っていたら命はなかった」と身震いする。運命を分けたジャンケンとは――。これを知るには佐藤さんの経歴をさかのぼらなければならない。
佐藤さんが高等師範に進学したのは1944(昭和19)年、16歳だった。旧制岡山二中(5年制)の4年時に飛び級で受験した。1年目は軍隊式の寮生活。6月に広島の沖合4kmに浮かぶ似島で陸軍のドラム缶運搬作業に従事した。「3日目に激しい腹痛と高熱に見舞われました。伝染病の腸チフスでした。39度の発熱が半月も続き、退院したのは8月です。病床でサイパン陥落を聞きました」。世相の暗さが増す中で、佐藤さんは1年間休学して翌年度に1年生をやり直すことになった。
復学した時、授業は行われていなかった。学生は市外の東洋工業(現マツダ)や日本製鋼所へ動員されていた。ただし、病弱と判断された30人は市街地にあった校内に残され、軽作業をした。校庭でサツマイモ栽培などを行ったのだ。佐藤さんもこの中に入れられ、伝書鳩の担当になった。中学時代に伝書鳩部だったためだ。当時の伝書鳩は軍の通信に使われていて、生物学の教授が軍の研究委託で200羽ほどを飼っていた。
「もしも、あのジャンケンに負けていたら…」
#1で取り上げたMさんも、同じように病気で1年間休学した後で、野菜作りの担当になった。同じ旧制岡山二中の出身。すぐに仲良くなった。




