寮生活は1年間だけだから、下宿を探さなければならない。伝書鳩の委託研究をしていた教授の秘書は5歳上の女性で、佐藤さんを弟のように可愛がってくれた。この女性は高等師範から徒歩10分ほどのところにあった薬局の娘で、近所の民家の2階に間借りできるよう頼んでくれた。ここにMさんと2人で入った。
農業を営むMさんの実家から仕送りがあったから、なんとか2人で自炊を続けられたものの、いつも空腹だった。前年は繁華街の八丁堀の食堂に出掛け、材料が乏しくても作れるよう工夫された海草入りの黒いソウメンを食べることもあったが、難しくなっていた。昼は週に何日かしか開かない学校近くの雑炊食堂に並ぶ。材料がなくなって途中で閉店することもあった。「食べられても、はしが立たないほどの薄さでした」。
工場へ動員された学生に夏休みはなかった。しかし、学内作業の30人は交代で夏休みを取ることになった。ジャンケンで勝てばA班で、8月1日から1週間休む。負ければB班で、その後に休む。朝礼でMさんとのジャンケンに勝った佐藤さんは先に休むA班に入った。これが2人の運命を分けた。
傷ついた兵隊が「水を下さい、水を下さい」
8月6日、佐藤さんは岡山の実家で「広島がやられた」と聞いた。ラジオや新聞は「新型爆弾」「特殊爆弾」と伝え、「被害甚大」と報じていた。佐藤さんは気が気ではなく、広島に戻ろうと考えたが、当時は列車の切符がなかなか取れない。2日後の福山空襲で山陽本線が一時不通になり、さらに戻るのが遅れた。
広島へ向かったのは原爆投下から5日後の8月11日。広島駅に降り立ち、まず驚いたのは駅正面に出る地下道だ。「包帯を巻いた兵隊がごろごろと寝かされていて、『水を下さい、水を下さい』と言っていました。看護師がはしで傷口から何かを取り除いており、よく見るとウジでした」。
駅前に立つと、ビルが壊れ、赤茶色の瓦礫が一面に広がっていた。広島電鉄の電車が焼けただれ、骨組みだけになっている。「これが新型爆弾なのか」。佐藤さんはのどがからからになり、水筒の水をぐっと飲んだ。
高等師範は4kmほど先だ。八丁堀も瓦礫だらけで繁華街の面影はなかった。橋の欄干は多くが倒れていた。「倒れていなければ、光線が当たったところが赤く焼け、当たらなかったところは白くなっていました。樹木は太い幹の部分だけが焦げて残っています。どこまで歩いても瓦礫だらけで、誰にも会いません。不気味でした」。
「男か女か分からないおびただしい死体を…」
市役所、白神社、広島赤十字病院。横を通ったのは記憶しているが、どんな状態だったか思い出せない。
高等師範の木造校舍は跡形もなくなっていた。家ほどの大きさだった鳩小屋も、ない。「8時15分と言えば、ちょうど鳩の糞を処理する時刻。もし、ジャンケンに負けてここにいたら……」。佐藤さんはゾッとした。




