野菜を作っていたはずの校庭には、たまたま担当教授がいて、「佐藤君、見た通りだ。学校には誰もいない。無期休業だ。このまま帰って下さい」と言った。

 下宿先を訪れても、佐藤さんの鉄かぶとが一つ転がっていただけで、何もなかった。優しいおじさんとおばさん、そして広島女学院に通っていた同年代の娘も行方が知れなかった。この下宿を紹介してくれた伝書鳩担当の教授秘書の女性も消息が分からない。そもそも一緒に住んでいたMさんの安否が不明だ。

現在も御幸橋近くでは、原爆で焼けた鉄兜が展示されている ©Taro Hagami

 東洋工業などに動員されていた学生は爆風で吹き飛んだガラスを浴びたぐらいで済んだという。その後、この中にいた同郷の学生から「広島市内へ3日間出動し、男か女かも分からないおびただしい死体をトラックでピストン輸送した」と聞かされた。

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次の記事に続く 「生きていられない数値。原爆の影響だ」17歳で焼け野原の広島に…30代で“白血球異常”「おじいさんはまもなく死ぬ」98歳の被爆者が明かす「なぜ94歳で原爆を語り始めたか」