この頃、商店街が再建され始めていた。同年、京都の京極になぞらえ、広極商店街ができた。「戦後は泥棒が多く、夜警を募集していました。これに応募し、昼は学校、夜は警備員です」。最初は1カ月のうちに2度も盗まれたが、3度目は「商店街の人も加わった大捕り物の末に捕まえました」と話す。
空いた時間はサンドイッチマンをした。「洋画専門の映画館ができ、私から『やらないか』と売り込みました」。体の前後を看板で挟み、人込みを歩く。物珍しかったので、朝日新聞で記事にされた。
ボールペンが発売されると、事業所などに飛び込み営業で回った。
広島の街はたくましく復興に向けて歩み始めていたが、佐藤さんもまた、たくましく生きた。
そんな時、地元の中国新聞に驚いた。被爆まで下宿していた家の娘の名前が出ていたからだ。当時は広島女学院の1年生。一緒に間借りしていた同級のMさんと2人で胸をときめかせたこともある。広島復興のために催された第1回ミス・ヒロシマ募集で準ミスに選ばれたのだ。ちなみにミスは女優として活躍した角梨枝子さんである。
かなり先の話になるが、この女性とは広島で面会した。被爆時は父母と娘の3人暮らし。婦人会で建物疎開に出ていた母は消息不明になった。建物疎開とは、空襲で火災が広がらないよう、あらかじめ家を壊して空き地を増やす作業だ。
伝書鳩担当の教授秘書をしていた女性の行方は50年後に分かった。佐藤さんを弟のように可愛がり、下宿を紹介してくれた人だ。手紙を出すと「あの佐藤さんと分かり号泣しました」と返事が来た。薬局を営んでいた父母は爆死していた。
「生きていられない数値。原爆の影響」
話を1948年の広島に戻そう。アルバイトと学業に明け暮れていた佐藤さんは無理がたたり、肺浸潤になった。休学を余儀なくされ、貯えもないのに留年が決まる。やむなく大学を中退した。
帰郷後、小学校の教員になった。が、飛び級で進学を重ねたため、旧制中学も高等師範も卒業していない。学歴は小卒だった。「県を通じて、国に掛け合ってもらい、特例で教員免許をもらいました」と話す。




