30代、体がだるくなって診察を受けると、白血球が極端に少なくなっていた。医者には「生きていられない数値。原爆の影響」と言われたが、治療で直すことができた。投下から15日以内に高線量の爆心地から2km圏に入った人は「入市(にゅうし)被爆者」とされ、佐藤さんは被爆者健康手帳を持っている。

「おじいさんはまもなく死ぬ」94歳で原爆の語り部に

 佐藤さんは多才だ。郷土の茶屋町は倉敷市に編入される前、単独の町だった。町史編纂に加わったほか、子供用の町史も書き上げた。「自分史を作ろう」という講座は4自治体で20年間も続けた。毛筆で賞状などを書く筆耕をヒントに、マス目いっぱいに書くと字が美しくなる「四角法」を編み出し、94歳で実用新案に登録された。98歳の今年は初級・中級・上級の3冊の練習帳を出版した。100歳に向けては新たな著作も計画している。

「与えて思わず、受けて忘れず」。98歳の心境を書
にした佐藤圭一さん

 佐藤さんが原爆の語り部を続けているのは、倉敷被爆者会の世羅憲司会長(81歳)の勧めがあり、「手記」を残したMさんの思いに応えたくもあったからだが、話を聞いた子供達に背中を押された面もある。

ADVERTISEMENT

「語り部を始めた94歳の時、地元の中学校に招かれました。どの子も目が本気でした。『おじいさんは間もなく死ぬ。原爆体験者も死ぬ。ワシらがおらんようになったら、誰が語ってくれるのか。誰が受け継いでくれるのか。この話を聞いて、何人かでもノーモア広島と言うてくれたらありがたい』と語ると、多くの子が『ノーモア広島』と言ってくれました。町で会った時に『ノーモア広島』と言ってくれる子もいます。私は語れる限り語り続けようと思いました」

「裏切られた思いでした」特攻兵募集の真相

 佐藤さんには原爆の他にも胸に刺さっている話がある。旧制岡山二中の3年生だった15歳の時、海軍飛行予科練習生(予科練)の全国募集があった。旧制中ごとにノルマがあったとされ、合格すると特攻兵としても出撃した。佐藤さんは担任教諭の熱い勧誘に「心が燃えた。お国のために死んでもいい」と志願した。

 試験は2日間で行われた。その2日目の朝、目が覚めると父母と祖母が枕元にいた。3人は涙ながらに「試験に行くのを止めてほしい」と懇願した。受験を断念した佐藤さんは「僕は非国民になった」と泣きながら布団を被ったが、合格者からは戦死者も出ている。

 後に還暦の同窓会で衝撃の事実を知った。担任教諭は医者の長男に願書を取り下げさせていたのだ。「親に頼まれたのでしょうが、裏切られたという思いでした」。

現在の広島で。広島電鉄651号と652号はともに「被爆電車」、今も現役だ

 しかし今、改めて思う。「私の年代は軍国少年でした。死ぬかもしれないのに、どの親も本音では戦争に行かせたくなかったはずです。担任にも大きな葛藤があったでしょう」。

 何が悪いのか。佐藤さんは突き詰めて考えた。答えは一つだ。「戦争が悪い。戦争さえなかったら……。これほど人を不幸にするものはありません。どんな事情があってもすべきではない」。強く言葉を結んだ。

最初から記事を読む 「死んだ魚のように、死体がぎっしり…」「医者も看護師も血を流し…」広島で被爆した親友が残した“証言メモ”のショッキングな光景「首がダラリと垂れた赤ん坊」