「近鉄電車ではよ帰れ!」
南海ファンは「近鉄ファンは南海の応援の真似をする」と言って憤慨したものだ。
大阪球場では、近鉄の選手が失策をすると
「やった、やった、またやった、石渡(茂)がやった、またやった、近鉄電車ではよ帰れ!」
とはやし立てたが、近鉄は南海の選手が失策をすると同じように、
「南海電車ではよ帰れ!」
とやったのである。
「まねすなー!」と南海ファンは怒ったものだ。
1980年代中ごろ、南海の正捕手の座はドカベンこと香川伸行と、吉田博之が争っていた。
南海ファンは吉田が打席に立つと
「吉田、吉田、おとこまえ!」と声援を送った。
横浜高校出身でしゅっとした風貌の吉田は女性ファンが多かった。しかしそれ以上に「ドカベン香川に比べりゃ男前」というニュアンスが強かった。
ところが近鉄ファンは自軍の正捕手、山下和彦に
「山下、山下、おとこまえ!」とやったのだ。
「それは違うぞ!」と一塁側の南海ファンは三塁側に向けて怒った。
「山下の顔見てみい、ドカベンとええ勝負やないか!」
どっちの応援団も100人そこそこ、両陣営のやじ合戦はお客がまばらな球場に響き渡ったものだ。
当時のパ・リーグの試合で最も沸いたのは、試合中に流れる「他球場の試合経過」で、阪神がリードしているとアナウンスされたときだ。関西球団同士の試合では、両軍の観客席から拍手、歓声が起こった。筆者はずいぶん寂しく思ったものだ。いま思えば、いろいろと“遠い”時代である。
地元住民に迷惑がられたプロ野球チーム
近鉄ファンの気勢が今一つ上がらなかったのは、本拠地球場がはっきりしない、ということも大きかった。
近鉄バファローズの本拠地は、公式には近鉄南大阪線藤井寺駅近くにあった「藤井寺球場」だった。しかしこの球場にはナイター設備がなかった。照明の鉄塔を建てた段階で近隣住民が反対したからだ。藤井寺球場でのデーゲームは「寒かった」「暑かった」くらいしか記憶がない。それにしても地元住民が応援するどころか、迷惑がるプロ野球チームって……。
実質的な本拠地は大阪市内の「日生球場(日本生命球場)」だった。こちらはアクセスも良く、通いやすい球場ではあったが「近鉄電車で行けない」ことがファンの癪の種だった。国鉄(JR)、地下鉄の森ノ宮駅が最寄りだったが、近鉄ファンの友人などは近鉄鶴橋駅から30分かけて歩いて通ったものだ。
森ノ宮駅を降りて、真西へ。右に大阪城を眺めながらなだらかな坂を上り、緩やかにカーブした大階段を上って球場に入るのだ。石畳には、野球場を模したデザインの敷石が敷いてあった。それを見るだけで心がうきうきしたものだ。日生球場は今はなく商業施設になっているが、敷石は当時のままだ。