「モチベーションを保つことがどの産業においても難しい時期なのかもしれません。ですけど、やっぱり僕たちが演劇を信じること……僕はこの産業は、とても血の通った仕事だと自負しています。この血の通った仕事がいつか、皆さんの気持ちを高めてくれるんじゃないかなと信じて、もっともっと、皆さんがエンターテインメントに触れる時に、そのエンタメがもっと質の高いエンタメとして皆さんのもとに届けられるように、僕たちは一生懸命にその日まで色んなスキルを身につけて皆さんに感動をお届けできればいいなと強く思います。
なので、また会える日を願って、皆さんの健康を、これからの健康を願って、お別れの言葉とさせていただきます。本日は本当にありがとうございました」
共演者や子供たちに時間を分け与えた最後の時間で、それほど長く話したわけではなかったが、その短いスピーチには彼の信念と思考が凝縮されていた。
演劇をあえて「産業」と表現した意味
強く印象に残ったのは、彼が「演劇を信じること」と語る時、それを文化や芸術という言葉ではなく、あえて「産業」と表現していたことだった。挨拶の中で「どの産業においても」という言葉をおいていたように、三浦春馬は自分の信じる演劇を、製造業や建設業といった他の産業と同じ、貴賎のない仕事の一つとして語ろうとしていた。
三浦春馬はこの4年間、日本中の「産業」に関わってきた。この舞台の直後に刊行された著書『日本製』の中で、彼は4年をかけて47都道府県を回り、その地場産業を支える人々と交わり、その仕事を紹介している。
宮城県の水産業、福島県の農家、沖縄県の伝統芸能。三浦春馬ほどのトップ俳優にとって、月刊誌『プラスアクト』の連載一つのために毎回地方ロケに匹敵する移動と宿泊を行い、しかも地元の職人たちに丁寧に取材を重ねるために勉強もしっかりするという仕事は、到底コストに見合うような企画でなかったはずだ。
だが彼は丸々4年、48ヶ月をかけて、47都道府県の市井の人々と関わる企画を続けてきた。テレビ番組ならロケ何十本分もの時間を費やし、広告代理店を通したCMタイアップ企画であれば大変な契約金額になるであろう地場産業の紹介を、彼はただ雑誌連載の1企画として4年も続けてきたのだ。
彼が20代のころ、俳優を辞めて農業をしたいと親しい人に悩みを相談していたことは今改めて報じられているが、三浦春馬は各地の地場産業の人々との関わりの中で、ずっと「演じることの意味」を探していたのではないかと思う。