主人公にセクハラする男性が“消えた”
本作は総じて、社会の側の歪みをジョゼ個人の「甘え」や勇気の問題に回収する姿勢が目立つ。勿論その方向性自体は仕方ない。クリスマスにわざわざ障害者問題を考えに映画館に行くカップルなど居ないのだから。
それでも、ジョゼと同じアパートに住み「お乳房さわらしてくれたら何でも用したる」と言い寄る男だけは絶対に残すべきだった(注2)。彼は恋愛や性という『ジョゼ』の根幹を成すテーマに直接関わる存在だからだ。原作や実写では厳然と存在した彼が消された本作では、ジョゼが外の世界で立ち向かわねばならない恐怖の輪郭はひどくぼやけ、その象徴たる虎も抽象的な存在に成り下がった。
女性障害者が性犯罪の格好の標的とされる状況は今も変わっていない。今年、視覚障害者の女性が相次いで盗撮される事件が起きたが、その中には自宅まで侵入してカメラを仕掛けられた例もあった。ジョゼが悪意の気配に敏感なのも性被害を抜きには語れない。「女性である」ことと「障害がある」ことの複合的な困難の一端はNHKのサイトにまとめられている。
女性障害者達は恋愛や性の領域で次のようなジレンマを抱えていると考えられる。一方では桁違いに高い性被害のリスクと、そこからの「保護」を口実にした生活への厳しい管理・介入。他方で「恋愛や性では障害を言い訳にせず、もっと主体的にならないといけない」という規範圧力も根強い。まさに前門の虎、後門の狼である。
しかし本来「安全な環境の保証」と「性的主体になれる」ということは相反するものではない。むしろ両者は表裏一体の権利である。後者の自由を安心して行使するためには前者の存在が大前提となるからだ。
ジョゼは上記の男の振る舞いによって、安全を脅かされるだけでなく、同時に性嫌悪も否応なく植え付けられているのだ。それに拍車を掛けるような生い立ちもある。原作では生みの親にも継母にも半ば捨てられる形で施設に入れられていたのだが、疎まれた一因として「車椅子が要って生理がはじまっているという『ややこしい』」存在である事が挙げられている(注3)。
注2……田辺聖子『ジョゼと虎と魚たち』(角川文庫)p.192
注3……田辺聖子『ジョゼと虎と魚たち』(角川文庫)p.183